中国人の日本語学習史 ―清末の東文学堂―

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劉 建雲 著

中国研究所 『中国研究月報』 第61巻第8号(2007年8月)
汪 婉 (共立女子大学)

本書は、清代の末期、中国国内で日本語教育がいかに展開されていったかを考察し、特に当時、中国人が日本語を学ぶ場としての役割を果たした「東文学堂」を中心に、日本語教育・学習の実態を明らかにしたものである。加えて近代以前(明・清)の中国人による日本語研究の状況も視野に入れて論じようとしている。徹底した史料調査に基づいた緻密な実証研究である。これまで、中国人の日本語学習を歴史的に記述する視点は、日本の植民地的言語政策という批判的なものが多かった。本書は、日清戦争後の中国史上初の日本語学習ブームを主な時代背景とし、中国人の側から見た中国人の日本語学習の場、そこに展開される日本語教育・学習の実態解明を試みた研究書である。日本語教育学習史をより豊かなものへと育てる重要な研究といえよう。なお本書は著者が岡山大学大学院文化科学研究科に提出した博士論文を加筆・修正し、再構成されていることを付言しておく。

まず構成にしたがって内容を概観したい。本書は、序章、全7章の本論、および終章から構成される。第1章では、近代中国における本格的な日本語教育が始まる以前に存在した、中国人による日本語認識・日本語研究について考察している。明清両代の日本研究書を博捜し、そこに見られる日本語に関する論述をピックアップして、その情報の発信源から分類・分析した。明清両代の日本語研究が連続性に欠ける原因について、「日本語の学習を伴わない日本語研究」 にあると指摘している。さらに、清末の黄遵憲の日本語研究についてとりあげ、清末の漢字改革に寄与するという意図、研究の画期的な意味、日本語習熟者ではないという限界など、緻密な考察が行われている。特筆すべきところである。

第2章では、明代の外国語教育と日本語、清代の同文館における「東文館」の開設の問題について考察している。特に中国国内における日本語の正規教育が、1897年3月、清朝の官立外国語学校であった京師・広州両同文館で始まったとの事実究明は、清末中国人の日本語学習の動向とその実態を把握する上で重要な意味をもつ。さらに、京師同文館における外国語教育の基本方向は「以漢翻洋」(漢語によって外国語を翻訳する)であり、それは後に速成を目指す多くの東文学堂の出現の一要因となったことを指摘している。

第3章「清末に蔟生した東文学堂」では、日清戦争後の激動する国際情勢の中で、日本語学習の場となった「東文学堂」を中心に、中国史上初の日本語学習ブームの実態を明らかにしている。

「東文学堂」を、「中国人を学習の主体・教育の対象とし、主に日本語教育あるいは日本語を通して普通教育を行う、日本人または中国人が設立した学校のことである」(92頁)と再定義するとともに、清末中国の東文学堂を中国人設立・日本人設立および中日共同設立の3種類に整理し、その設立の動機や資金管理、教育運営などを具体的に検討している。清末東文学堂の全体像を明らかにしたところに大きな意義がある。東文学堂の教育目的について、日本語を教授する学堂、日本人教師の力を借りて近代的基礎教育を行う学堂、「見識の養成、体カの練磨」を目的とする学堂、日本留学予備校の性質をもつ学堂など、教育目的が多岐に分かれていたことを指摘している。

中でも、特に東文学堂の「唯一の成功例」として注目された福州東文学堂、およびこれまで研究の対象とされることがなかった東本願寺の東文学堂、さらに生徒と教師の人数が最も多かった北京東文学社について、第4・5・6章において、その設立の時代背景、学堂運営をめぐるさまざまな勢力・団体・個人の活躍・衝突・協力などについて考察している。特に東本願寺は、いままで教団史研究の中で清国布教活動の一環として取り上げられただけで、東本願寺設立の東文学堂に関する研究はほとんど存在しなかった。教育機関・教育事業としての側面に関する事実解明には重要な意味を持つ。著者は東文学堂をめぐる日本人の関与について、「日本人の教育事業や関与の背後には常に国策に基づく勢力拡張の意図が働いており」、と指摘する一方、「教育の場で多くの教育熱心な日本人教師の努力が……中国における前近代教育、及び日本語教育という日中文化交流の基盤に足跡を残した」(258頁)と評価している。

第7章では、清末中国人の日本語学習の実態を考察している。学習者の動機と教師が抱えた課題を分析し、中国人学習者の「速成」要求に迎合して、「和文漢読法」と「漢文和訳法」といった文章語に即した速成的日本語教授法が流行っていた事実を明らかにした。清末中国における日本語学習ブームの実態を解明する上で重要な意味を持つ。さらに、現場の教師が使用した教材・教科書などの具体的な資料が見付からない原因として、日本人教師の流動性が激しいこと、日本人教師の関心が常に日本語教育以外にあることなどを指摘している。このような全体状況の中で、広州同文館における長谷川雄太郎の実践や、彼の書き残した記録に関する考察は特筆すべきところである。

終章「結論と課題」は、本書の総まとめであると同時に、成立論における著者の取り組みを改めて目的意識から述べるとともに、今後進むべき道を提示する。

以上で、本書の概要を述べたが、以下、若干の疑問点・意見を列挙しておきたい。

清代の同文館、特に清末の東文学堂に関する研究は、歴史学や教育史学および日中文化交流史などの分野において、実藤恵秀をはじめ佐藤三郎・汪向栄・阿部洋・中村孝志・細野浩二など数多くの研究者の努力によって着実に積み重ねられてきた。本書の特色はなによりも、従来の個別事例の研究――個別の東文学堂・日本人教習の活動・明治日本の対華教育工作・日本語教科書の研究などを超えて、清末に現れた東文学堂の実態の全容を明らかにしたことである。この点に関しては、評価すべきである。

しかし、著者が先行研究の間題点として特に指摘したのは、「その時代を生きた中国人の日本語学習の要求」や「日本語学習の主体側の視点を抜きにしている」という点である。「中国人の日本語学習史」とのタイトルをもつ本書は、その最重要な視角として、「序章」によれば、「中国人の日本語学習を明確に研究対象としてとらえ」、清末中国人の日本語学習の実態を解明する(11頁)ことを提起している。これは著者の独自の視座と対象設定といえよう。しかし、本書を読み通してみると、中国人の日本語学習の実態を考察したのは第7章だけで、著者の関心はつねに「中国人の日本語を学習する場」に走ってしまう。そこにはとりたてて目新しい視点はない。さらに、文中、「日本語教育」と「日本語学習」を混同して考察・分析するのも気になるところである。

明清両代の中国人の日本語研究について考察した第1章では、著者が取り上げる史料の多くは中国人の「日本語研究書」というより、「東遊日記」を含む中国人による「総合的な日本研究書」である。このような史料の制限もあり、日本語研究の情報の発信源を指摘してはいるものの、日本語研究の実態解明にはまだ不十分であると思う。さらに、日本の国語学分野で上述の史料に基づいた豊富な研究成果がすでに存在する状況に対して、著者は、中国人の日本語研究史という視点から全面的に分析・考祭しようと意欲的であるが、黄遵憲の日本語研究について丁寧に考察されたほかは、明清両代における中国人の日本語研究の全体像を浮き彫りにするにはまだ不十分であり、詳細な考察は今後の課題として残されている。

清代の京師同文館および「東文館」の設立に関する先行研究が少なくない中、第2章の特色はやはり「日本語学習の主体側に視点を置く」ことであろう。しかし、同文館の外国語教育の長い歴史の中で日本語教育が短いものであったこともあり、史料不足のため、論述が設立の経緯や時代背景の分析に集中し、中国人の日本語学習に関する実態究明は見られない。この章の第3節にせっかく「同文館の日本語教育」(正確には京師同文館)という一段落を設けているものの、「史料が不足のため、詳細は明らかでない。訳書が中心で、しかも常に『以漢翻洋』をもって学生の外国語習熟度をはかっていた点から、外国語教育の基本的方向が想定出来る」(87頁)と言及するにとどまっている。

本書の根幹をなす3・4・5・6章は、中国人の日本語を学ぶ場――東文学堂に関する論考となっている。その創設の目的・資金運営・組織管理・日本人教習・明治日本の対華政策など、詳細に考察をしている。各種東文学堂の特徴、学堂をめぐる創立から閉鎖または改組までの事実経過など、先行研究を踏まえて再検討を試みているが、中国人の日本語学習史からのアプローチは少ない。福州東文学堂については「中日関係史からの考察」であり、東本願寺の東文学堂については布教活動と日本の対華姿勢から分析し、北京東文学社については「教育機関として再検討」している。本書の本筋である、肝心の中国人の日本語学習については、具体的な史料や考察が少なく、せいぜい教育課程をとりあげる程度である。

著者は、「中国人設立の普通学校に招かれた日本人教習の多くは通訳を介して授業を行っていたのに対して、東文学堂では日本語教育を先行し、生徒が日本語で直接授業が受けられるようになるのを待って、普通学か、または専門学の内容を施したという点で大きな違いがある」(260頁)と指摘するとともに、「これこそが、筆者が中国人の日本語学習史の視点から東文学堂の研究をなす意味の所在である」(260頁)と強調している。しかし、この点に関する具体的な考察があまりみられないのは残念なことである。

「清末中国人の日本語学習の実態」と題する最終章では、ようやく本書の主題への考察に取り組むが、中国人の日本語学習の動機を簡単に分析したほかは、「明治期日本語の言文分離の現実」、「日本人教師にとっての日本語教育の課題」、「長谷川雄大郎の日本語教育の実践」、「時代の特徴をもつ教授法」など、考察の視点は、日本人教師の日本語教育におかれている。確かに、中国人の日本語学習の実態を解明するには、学習と教授がともに重要であるが、日本人教師の日本語教育に関する分析だけでは、中国人の日本語学習を論証したとするには不十分であると思う。

終章の部分で、著者は、「東文学堂の出現が中国の近代的学校制度確立の前夜に当った」(259頁)と指摘し、日本人設立の東文学堂および日本人教師の努力を評価して、「中国における前近代教育、すなわち近代的学校制度の確立前の近代教育」(258頁)に貢献した面があると指摘している。東文学堂の設立・存続期間が、第3章「東文学堂の概況」によれば、1898年から1908年までの間であるから、「前夜」や「中国の前近代教育」との表現は、厳密さを欠くように思う。そして、清末の東文学堂の意義について、「同文館やミッション・スクールと同じ役割を果したと言ってよい」(259頁)とする指摘もやや結論を急ぎすぎているようだ。

以上、本書の内容・意義・問題点について評者なりの紹介・評価を行ってきた。中には評者の力不足による誤読や不適切な評価もあり、批判が外在的なものになったのではないかと懸念している。ご海容を願う。

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