丹羽文雄と田村泰次郎

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濱川勝彦・半田美永・秦 昌弘・尾西康充 編著

解釈学会 『解釈』 2007年7・8月号
奥出 健 (湘南短期大学学長)

本田佳子『父・丹羽文雄介護の日々』(中央公論社)が評判になったのはついこの間、と思っていたのが、半田美水氏の「序にかえて」でもう15年近く経っていると知らされた。「光陰矢の如し」という箴言を実感するのは老齢になってからであるということを改めて思い知らされた。時間は何ものをも待たない。あらゆることを人間から忘却させてゆく。

さて、講談社版『全集』があり、研究の一里塚が設定されている丹羽はともかく、田村泰次郎などは生存中に大衆にあれほど膾炙されていながら、作品はすでに忘却の入り口にさしかかっているという観がないでもない。印象として田村泰次郎の仕事はなかなか掘り返されることがなかったという思いが強い。

もっとも本書において丹羽・田村の『研究史』をまとめた岡本和誼氏が『田村泰次郎選集』全5巻が平成17年に刊行されたということを報告してくれているので、これは慶賀にたえない。この2作家は三重県に所縁があり、2人とも三重県立第二中学(現四日市高校)で学び、早稲田に進学するという、いみじき因縁があった。丹羽が中学に進学したときには田村泰次郎の父親が校長であったという寄妙な因縁も本書の年譜によって知ることができる。このような地域や因縁で結ばれた作家を、その地域に関わりのある(あった)研究者が主体となって共同で掘り起こしていくという作業には興味ふかい事実や因縁が掘り起こされることが多い。本書も丹羽、田村にそれぞれ関わる興味深い論考が8本ずつ、合計16本が掲載されている。また資料として研究史、年譜が付されてあり、地域から照射する研究書として重厚感がある。

丹羽文雄論で冒頭を飾るのは、高橋昌子氏「潮源の回避―丹羽文雄初期作品の構造」である。氏は論の冒頭において「作中人物の思惟構造が昨中の人物関係構図や作品自体の意想と相似形をなしている」と問題提起し、その実態を証明してゆくスタイルをとっている。「鮎」「贅肉」「煩悩愚足」など初期の世に知られた作品をとりあげつつ、丹羽の初期作品には「根無し」「根本消去」的な人物、つまり「根本に立ち入る思索を回避して、表層にある感情や世間的人間観を取り合わせて生きつつ…その生き方も偽装である」ごとき存在が多く登場すると分析する。こういう人物は当然「迎合」「方便」を多用するが、これら登場人物たちの人間根源究明の欠落は作者の「手記的手法」のゆえに現れるのではなく、その「思惟構造」自体にあるのだと結論づけている。そういう初期登場人物たちの通俗性は、その後のいわゆる「中間小説」を量産していく丹羽の作風を暗示していたと説いている。

初期作品にかぎらず丹羽作品の生母ものといわれるものには高橋氏の言葉でいう「言動の発作性」「感情本意」があらゆるところに現れる。それを氏のいうような評語で言い切るか否かは微妙なところではある。思うに高橋氏は誠実に細かく初期作品を読みつづけた末、その繰り返し的な言説や内容に辟易としながらこの論をものしたのではなかったか。科学的態度は失わないように己を律しながらも執筆時にイラつく高橋氏の姿が目に浮かんだ。非難しているのではない、むしろ耐えて書き得た氏にエールを送りたいのである。

そのほか、丹羽論のなかで、興味をかきたてられたのは三品理絵氏「丹羽文雄のミニマリズム―戦後の丹羽作品とへミングウェイ」と、濱川勝彦氏「丹羽文雄『親驚』における二つの問題」である。前者は「誰がために鐘は鳴る」の丹羽解釈、すなわち「個人の情熱と行動」を重視する部分を抽出しつつ、丹羽の解釈は「ミニマリズム文学の書き手たちと」共通すると説く。そして「日常的性格の題材」「社会的広がりの欠如・空間の小ささ」「文体の簡潔さ」などミニマリズムの6点の特微を提示して、結局、丹羽の文学は「散文精神に裏打ちされた緻密なリアリズムのまなざし」をもつが、「『生母』へのこだわり、『風俗 』への着眼は、その素材の日常性格や扱われる空間の小ささを示している」と断じている。この論は量産作家としておうおうに低く見積もられている丹羽文学の底上げを狙う論として興味深かった。ただ「『生母 』へのこだわり、『風俗』への着眼」をそのまま散文精神と銘打つことができるのか、その箇所では疑問も残ったが、氏は「視点の相対化」の節において諸作品を論じ、単なるリアリズムではなく、「はみ出したリアリズム」という言葉を抽出し意味づけをしてくれている。

後者はただただ興味深く読んだ。親鸞の事跡として語られる六角堂参籠時の夢告の部分をめぐって、なぜ丹羽『親鷺』がそれを否定しているのか、また「悪人正機の説」の部分では丹羽が正しくその条件(悪人が正機される)を書き得ているか否かなど、まるで推理小説のように説いてくれているのが面白かった。そうすることによって中村光夫『風俗小説論』などでおとしめられた丹羽の仏教関連小説を再評価しているのである。水川布美子氏の論は「勤皇届出」の典拠との比較、その脚色の方法を論じたあと、本作品は新体制下に於けるジャーナリズムの動揺」期がうんだ産物であるとともにバルザックの影響を受けた創作方法転換期の作品と位置づけている。

半田美水氏の「青麦」論は、主人公・「鈴鹿」の「人生のまん中にいる」感覚や、父の描かれ方をめぐって論をすすめ、この作品がやがて『親驚』『蓮如』への萌芽となっていることを説いていて興味深い。

丹羽論では他に岡木和誼氏の「蛇と鳩」論、衣斐弘行氏「丹羽文雄論―その寺族史と宗教観からの視点」、竹添敦子氏「『文学者』時代の瀬戸内晴美」が収録されている。いずれも読み甲斐がある。

田村泰次郎は「肉体の悪魔」「肉体の門」で時代の寵児となったが、時代の変化とともに単なる風俗小説家として打ち捨てられた観がある。しかしいま逆に、過ぎ去った時代を照射する要素としてもその文学世界を再検討する時期にきている。カストリ雑誌の調査研究が近年充実してきているのも終戦後十年程度の期間が現代日本文化にとっていかに重要かが認識されてきているからだろう。その意味において三重県立図書館に田村泰次郎文庫が設置され資料が整備されたのはたいへん意味のあることである。

ところで田村論の冒頭を飾るのは、中川智寛氏の田村泰次郎論である。文芸復興論争や横光利一との影響関係に視点を定め、戦後の刺激的作品群によってのみ知られる田村泰次郎文学の「実」を初期作品群を論じることによって明らかにしようとした尖鋭的な論といえよう。

私の興味の範囲であるけれど、とくに注目しつつ読んだのが演川勝彦氏「田村泰次郎論―『肉体の悪魔』を中心に」と、原卓史氏「田村泰次郎とカストリ雑誌」であった。

前者は田村戦後作品をたどりながらその戦争観を追及している点において私の興味と一致した。まず濱川氏は「戦場と私―戦争文学のもう一つの眼」をとりあげ、そこで披瀝された「実戦の体験者だけが戦争小説を書ける。しかも一兵卒でなかった人の戦争小説は信じられない」や、自分が「戦場において人間以外のものであったことを認めるために原体験の忠実な表現者でなければならない」などという数点の特異な田村の視点を紹介している。いまとりあげた2点のみでも「肉体の悪魔」への道程は容易に推測できようが、氏はさらに「肉体の悪魔」の衛星的作品もとりあげ、戦場の実態を積極的価値として描き続けたその「肉体」のありようを説いてくれている。

原卓史氏の論は田村泰次郎がなぜ肉体作家としてのみ過剰に時代に受け入れられ、またそのゆえに時代に取り残されていったか、という要因をカストリ雑誌と田村とのかかわりを通して見事に証明している。高津祐典氏「『田村泰次郎』の評価を考える」には奥野健男の「田村泰次郎といえば『肉体の門』と条件反射的に浮かんできて、ジャーナリズムによって作者のその後の文学方向が規定されてしまった」という言葉が紹介され、それがいかに大衆に受け入れられたかは、「肉体が思考する」という言葉さえ流行ったと紹介してくれている。いま私は「大衆」に受け入れられた、とあえて記したが、その一要素としてカストリ雑誌へのいわゆる「肉体小説」の執筆、そういう雑誌での座談会での発言などが一要因であったことを原卓史氏の調査ははっきりととらえている。

尾西康充氏の詳細な作品現地踏査(中国河北地方)報告、鈴木昌司氏の田村泰次郎の資料紹介も興味深く読んだ。そのほか紹介のみにとどまるが先記の高津祐典氏「『田村泰次郎』の評価を考える」、天野知幸氏『救済』される女たち―被占領下で観られた『肉体の門』」、秦昌弘氏「肉体文学新論」が収録されている。

なお、この書評はややわがままに書かせていただいた。したがって興味深い、面白いなどという軽い言葉が頻出するが、ご容赦ねがいたい。

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