和田典子著作選集

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和田典子著作選集編集委員会 編

国土社 『月刊社会教育』 2007年10月
井上恵美子 (フェリス女学院大学)

 

戦後一貫して先頭に立って家庭科教育の運動と理論を切り拓いてきた和田典子氏(以下、「和田さん」と称させて頂く)が2005年9月30日に亡くなった(享年89歳)。本書は、その時々の情勢との緊張関係のなかで、亡くなる間際まで記した500数点に上る和田さんの著作の内から、代表的なものを選び収録したものである。

まだ院生であった私は、高校家庭科男女共学必修実現前夜にあたる1984〜85年に、ある出版社の編集会議でほぼ2カ月に1回、和田さんとご一緒する機会があった。温かいお人柄とともに、文部省の「家庭科教育に関する検討会議」報告(84年12月)をいかに評価するかお話されている時の厳しさに触れた。日本における家庭科教育とジェンダー問題の動向に全力を挙げて責任を持って前進させようという気迫に満ちていた。当時のことが本書を読むと一挙によみがえる。今回、編集委員に名前を連ねさせて頂いた関係もあって、本書を紹介させていただく。

本書は3部から成っている。

第1部は「座談会 和田典子の人とその仕事」であり、ゆかりのある人たちの座談会によって、和田さんのそれぞれの著作が編み出された文脈と背景がわかり、臨場感に満ちた本書の解題の役割を果たしている。

第2部「和田典子著作論文」には、まず「Ⅰ 1960〜1970年代」と「Ⅱ 1970〜1980年代」において家庭科教育論が、「Ⅲ 1980〜2000年代」では家庭教育、ジェンダー視点からの学校教育や女性運動についての論文が、「Ⅳ 戦後史における男女(ジェンダー)平等教育」には和田さんの自分史であると同時に家庭科教育、女性運動をめぐる史的証言でもある論考が、収録されている。

第3部には、和田さんの著作目録と略歴が掲載されている。

本書を通覧すると、さまざまなことを読み取ることができる。

和田さんが家庭科教育運動の第一人者であったことは周知のことである。しかし、そのプロセスは単純ではなかった。戦前の良妻賢母主義教育の中核に位置していた家庭科(「裁縫科」「家事科」「手芸科])から脱し、新たな家庭科の構築のために、志を同じくする家庭科教員たちと、教員組合を中心としての活動(教育研究全国集会、「家庭科研究会」「教育課程研究委員会」など)や、研究会「家庭科教育研究者連盟」を作っての取り組みをしていた時代から、家庭科男女共修の実現を真正面に掲げて、市民との共闘・国際的な視野も得て「家庭科の男女共修をすすめる会」(1974年〜)・「国際婦人年日本大会の決議を実現するための連絡会」(「国際婦人年連絡会」、1975年〜)を通して大運動を展開した段階へと発展させたプロセスがよく理解できる。

第2に、家庭科の確立・理論化をすすめるために、和田さんが教研集会などでの「『教育実践の分析・考察』から教科理論を組み立てるという独自の研究方法」を採っていた点が興味深い。既成の理論には満足できず、とはいえ教育学者たちからは「家庭科には教科理論がない」「家庭科は教科としてはないほうがいい」と指摘されるだけで頼りにできないために、「私たちでやるほかない」と決意したという。家庭科の独自性として「現実の生活事象」から出発することをしっかり位置づけた上で、さまざまな教育実践から理論を構築させるその方法は、住民の生活現実に依拠しながら実践から理論を積み上げていく社会教育学の方法に通じるものがあると思われる。一つの教科の発展過程を社会教育の視点で分析することができるのではないかと思われる。

第3に、学校や女教員の歴史に関する証言としても興味深い。ある東京都立の旧制中学校が新制高等学校となって女生徒をはじめて受け入れる際(1950年)に唯一の女教員として和田さんが赴任したこと、裏返せば400人中100人の女生徒の担当としては女教員一人で問に合うと当時思われていたこと、戦後の高校家庭科は新学制開始と同時に始まったのではなく和田さんの高校では1951年から開始され、その男女に開かれた選択科目としての家庭科は他の授業の終了後の「ぶらさがり」の授業として特設されたこと、さらに和田さんが新制高校の「H・R担任のポスト」を得るのに就任から15年も要したことなど、さまざまな興味深い事実がわかり、和田さんが一人の女教員として努力してきた一面を垣間見ることができる。

中・高における家庭科の男女共修が実現したことを「性的役割分担教育にくさびを打ち込んだ」と評価した和田さんは、「日本の男女差別状況を打開する要となり、男女平等をすすめる教育運動のセンターを願って」、1997年に「男女平等教育全国ネット」を立ち上げる。この会は現在も活発な活動をしており、社会教育関係者も多く加入している。和田さんは、家庭科をより良くしたいということだけに努カしていたのではなく、性別役割分業意識問題の中核にある家庭科を改革し、その延長線上にジェンダー問題の解決を見通していたことがよくわかる。それは、和田さんが自分の半生を振り返って「性別役割分業意識・体制との絶え間ない闘いの連続でした」と記していることからも理解できる。

和田さんの体調がすでに悪くなったころに「新しい歴史教科書をつくる会」の中学校教科書問題が浮上し、ところがそれに反対するある団体の声明にジェンダー問題への言及が皆無であったために、和田さんは徹夜で「つくる会」批判のアピールを作成し、「ネット」の総会で訴えた。そしてこの総会の場で例れ、救急車で運ばれたという。まさに最期まで、ジェンダー問題解決に努力された。教育基本法に続き、社会教育法や憲法改悪も俎上にある今、和田さんの遺志を私たちがいかに引き継ぐか問われている。

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