人事労務管理制度の形成過程 ―高度成長と労使協議―

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岩田憲治 著
 

労働政策研究・研修機構 『日本労働研究雑誌』
No.562(2007年5月号)
田口和雄 (高千穂大学経営学部准教授)

 

1 問題意識と研究方法

バブル経済崩壊後の経営環境の変化の中で人事労務管理の制度や慣行が変容しつつある。これまで不況のたびごとに人事労務管理の制度・慣行が改訂されていたが、それらは部分的な改訂にとどまっていた。しかしながら、平成期に行われている改訂は、これまでのとは違うことを著者は長年実務に携わってきた経験から感じ取っているようである。

そのために著者がとった選択は、職業生活を過ごした企業(松下電器)を題材に、現在の人事労務管理の制度・慣行の基礎が高度成長期に形成された過程を丁寧に描くという研究手法である。つまり、人事労務管理の制度・慣行が新設・改訂された過程における労使協議の実態、とくに経営側、労働組合側双方の意図とその背景を中心に両者の関係資料、および当時の関係者への聞き取り調査によって明らかにするという研究方法である。この時代の労使関係に関する先行研究は数多くあり、しかも多岐にわたる議論が行われていことから、著者は以下の3つの作業仮説を立てて検証している。

【作業仮説1】生産労働者の賃金体系が変更されるのは技術革新の影響以外にもあるのでないか。
【作業仮説2】労働条件の向上は労働組合の交渉力だけではなく、経営側の主導もしくは容認があったのではないか。
【作業仮説3】1970年代後半から急速に進んだ経営参加の制度化には経営側、労働組合側双方にどのようなねらいや意図があったのか。

これらの点を踏まえて、本書の目的を経営環境の変化によって「人事労務管理が変容する中で、守るべき制度・慣行の示唆をえること」としている。
 

2 本書の構成とその概要

以上の問題意識と研究方法を序章「課題と方法」で論じたうえで、第Ⅰ部から第Ⅲ部において作業仮説1から作業仮説3を検証し、それを踏まえて終章「要約と結語」で結論を提示している。

―第Ⅰ部 賃金体系の改訂
第1章 仕事給(職務給または職能給)の導入
第2章 労働組合による査定受け入れ
第3章 電機産業における仕事給の導入

―第Ⅱ部 労働条件の向上
第4章 週休2日制への過程
第5章 大幅賃上げと生産性向上

―第Ⅲ部 経営参加
第6章 消費者運動と企業別労働組合
第7章 経営参加の制度化
補 論 三菱電機の経営参加

作業仮説1「技術革新以外の要因による生産労働者の賃金体系の改訂」を検証する第Ⅰ部では、高度成長期に行われた賃金体系の改訂(仕事給の導入)(第1章)と労働組合による査定の受け入れ(第2章)に注目して、それらにおける経営側と労働組合側双方の意図とその背景について分析している。さらに、こうした改訂は電機産業、とくに松下電器の業容と同じ家電企業に共通していることを、家電企業2社(三洋電機、シャープ)と重電部門をもつ電機企業2社(日立、東芝)、それぞれのケーススタディと比較分析を通じて検証している(第3章)。

鉄鋼業等でみられた技術革新による仕事内容の変化が賃金体系改訂のきっかけになったことが松下電器では確認されず、むしろ「商品市場の拡大により従業員数が増加し、そのため大量の従業員を公平に処遇する制度の確立が必要であったこと、そして労働組合の一律配分要求に対抗する明確な経営側施策が必要であったこと」が改訂のきっかけとなり、加えて組合員意識の変化による組合路線転換(対抗的労使関係路線から相互信頼的労使関係路線へ)が仕事給導入を実現可能にさせた。さらに仕事給導入が松下電器だけではなく、三洋電機、シャープなどの家電企業でもみられ、しかも組合員意識の変化による相互信頼的労使関係への組合路線の変更がその要因であることを考察している。なお、電機企業でも日立、東芝における仕事給導入の背景が異なるのは「戦前から行っている重電事業の熟練が戦後の技術導入によって分解されて、生産労働の態様が変化したからである」と指摘している。

労働組合が査定を受け入れたのは、先行研究が主張する技術革新、仕事の変化、高学歴化などによるのではなく、組合内部の路線対立の結果、「相互信頼的労使関係路線に変わり、労使の意思疎通が良くなったこと、そして組合が賃金体系(仕事給)を自らの手で設計した過程で組合員が内容とその公平性をよく理解し、納得したことである」と考察しており、人事労務管理の制度・慣行の改訂における労使協議の重要性を主張している。

作業仮説2「経営側の主導もしくは容認による労働条件の向上」を検証する第Ⅱ部では、高度成長期における経営側主導による所定内労働時間短縮の意図とその背景および労働組合側の対応(第4章)と、大幅賃上げと生産性向上をめぐる経営側と労働組合側双方の意図とその背景(第5章)を取り上げて分析している。

労働力の確保が週休2日制導入の目的であると指摘する先行研究に対して、著者は経営側が欧米企業と互角の国際競争を行うには経営の国際化が必要であると考え、その一環で労働条件を先進国なみの水準に引き上げるために週休2日制を導入したと論じ、それに伴う労働強化の問題に対して、労使は相互信頼的労使関係のもとで丁寧な対応策を講じたと述べている。

もう1つの代表的な労働条件である賃金水準についても、ヨーロッパなみの水準に引き上げられ、労働条件の向上に伴うコストの増加を労働強化ではなく、事前協議制に基づく生産性向上によって吸収することが労使間で共有されていたことを考察している。

作業仮説3「労働組合の経営参加の制度化における経営側、労働組合側双方のねらいや意図」を検証する第Ⅲ部では、労働組合が経営参加(企業の管理・運営への参加)を要求するようになった消費者運動をめぐる労働組合の対応(第6章)と、その後の1970 年代半ばの松下電器における経営参加をめぐる労使双方の意図とその背景(第7章)を取り上げて分析している。さらに松下電器の事例が単なる特殊事例ではなく普遍性があることを三菱電機における経営参加のケーススタディを通じて明らかにしている(補論)。

松下電器におけるカラーテレビ不買運動と森永ミルク中毒事件が解決したのは、「相互信頼的労使関係のもと、消費者団体または被害者同盟などと経営側との間の意思と情報の仲介を果たす局面で、労働組合が市民としての意識を基礎として行動した」ことであると述べている。つまり、企業別労働組合が利害相反する企業の論理(企業は利益の最大化を目指して活動する)と社会の論理(消費者運動は健康で文化的な市民生活の維持・向上を達成する)の両方を併せ持ち、しかもどちらかに偏らずバランスを保ちながら消費者問題に取り組んだと著者は主張している。

また、経営参加の制度化は、長期雇用の保障を中心とする労使間の相互信頼関係のもと、雇用確保と労働条件の維持、企業と社会との調和を図ろうとする労働組合側の意図と、経営参加を通じた経営情報の共有と労働組合側の発言が労働者の動機づけにつながるとする経営側の考えが一致したことによるものであったと論じている。

終章では、以上を通して検証してきた内容を整理したうえで、高度成長期に形成された人事労務管理の制度・慣行のうち、「経営側と労働組合側が互いに意思を伝え協議できる制度・慣行」が今後も守られるべきであると結論づけている。この制度・慣行は相互信頼的労使関係を維持していくうえでの基盤となるものであり、「経営の円滑な運営に貢献するとともに、社会の安定に寄与するものである]と著者は主張する。
 

3 本書の意義と若干のコメント

以上が本書の主たる内容である。本書の意義は高度成長期の労使関係に関する先行研究で十分に明らかにすることができなかった労使協議の実態を労働組合側の内部資料や当時の関係者へのインタビューだけではなく、経営側の内部資料および関係者のインタビューなどによる複眼的な分析と、長年にわたり勤務していた企業での実務経験をもとにした外部の研究者から窺うことのできない深い考察によって描写されている点である。さらに検証を通じて明らかにされてきた特質は松下電器だけの特殊性ではなく、電機企業に共通した流れ(普遍性)であることを裏づけるため、他企業のケーススタディを行うことによって重層的な検証を行っている。このように体系的なフレームワークをもとに緻密で時間と労カを要する歴史研究に取り組んでいる著者の姿勢に敬意を払いたい。

以上の本書の功績を紹介したうえで、若千であるが私見を述べさせてもらいたいと思う。終章で松下電器が電機大手企業とほぼ同時期に類似の制度・慣行を導入した背景を「共存共栄」の経営理念であるとし、この理念が経営戦略や施策を作成する際の基礎となり、人事労務管理の制度、慣行に影響を与えていると論じている。たしかに、経営理念は企業が経営戦略の策定や組織の構築を行ううえで重要な役割を果たしているが、その一方で時代の経営環境の影響も受ける。こうした経営理念と時代の経営環境のもとで経営戦略や組織がつくられ、人事労務管理の制度・慣行はそれらに沿うように設計されているが、この観点からの考察が十分に行われていないように思われる。作業仮説の検証では丁寧に議論を展開してきていただけに、経営理念と人事労務管理の制度・慣行との間をつなぐ経営環境の変化と経営戦略や組織との関係についても外部の術究者からは窺うことのできない著者の深い考察をしてもらいたかった。現場をよく知る著者が丁寧な議論を展開することによって、新しい人事労務管理の制度・慣行の構築に向けて模索している労使に示唆を与えることができよう。

丹念な研究がなされている本書に対してさらに欲張った私見を述べさせてもらったが、本書の功績は高く評価されよう。著者の今後のさらなる研究を心から期待したい。

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