幸田露伴論考

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登尾 豊 著

『国文学』 2007年1月号

滝藤満義 (千葉大学教授)

本書は登尾氏が35年問にわたって発表し続けた露伴関連論考30篇を、3部に整理してまとめた作家論である。Ⅰは作品論で、「露団々」から「連環記」にいたる、露伴生涯の主要作品11篇を論じたものである。Ⅱは作家露伴、人間露伴に関わる個別のテーマを論じた論考群であり、Ⅲは露伴小伝、研究史、書籍解題等からなっている。

本書の中心をなすのは、言うまでもなくⅠの作品論の部で、分量的にも本書の過半を占めている。12篇の作品論(「連環記」論2篇あり)の中で最初に書かれた「五重塔」論は、それまで川端康成研究を目指していた若き日の登尾氏に、露伴研究へと舵を切らせた記念碑的なもので、当時この論の生成の過程に、図らずも立ち会った評者自身にも感慨の深いものがある。作品「五重塔」における「暴風雨の意味」を問うために、国会図書館気象庁分室に赴いて調べたことを直接氏から聞かされた当時のことが思い出される。ただ、現在Ⅰに収められた他の作品論と読み比べてみると、かなり詰屈な、評価意識の勝った、肩に力の入った論述であるように思われるのは、著者の若書きの故であろうか。当時の登尾氏の露伴評価の基軸は、三好行雄氏が提唱した「反近代」の視点で露伴文学を読み解くことにあった。これが「五重塔」の評価だけに留まらず、やがて氏の露伴論全体の基軸にもなったことは、本書所収の多くの論考の示すところである。「反近代」は無論「前近代」ではない。登尾氏は露伴文学がれっきとした近代文学であることを、例えば、恋愛を真面目なもとし、その精神性を謳う「風流仏」や、初期職人物の背景に「自助論」の精神があること、「いさなとり」の告白文学(「まことの我」の懺悔の物語)性等で示すばかりでなく、何よりも露伴の小説が「作者の内面の表現」であることを以て示そうとしている。しかしその半面において、露伴の基礎的な素養である漢学や仏教の思想が彼の文学を「述志の文学」たらしめ、浅薄な日本の近代化に対して文明批評の機能を果たすことになるというのである。この露伴の東洋的側面は、「短」にしては少年文学に顕著なように、彼の作品に教訓的、啓蒙的要素を突出させ、「長」にしては「風流微塵蔵」のように、「神のごとく人間世界を俯瞰して描く行為」や、「連環記」のように、「天の高みから人生を俯瞰するような行為」を可能ならしめるという。

以上のような登尾氏の露伴評価の基軸は、35年にわたる本書所収のどの論考においてもブレを見せない。それは氏の外連味のない達意の文章とともに、クリアーな露伴像をわれわれに提示してくれることになり見事であるが、これには氏自身が露伴の所謂「孤高」性に依拠し過ぎている部分もありはしないだろうか。登尾氏が言うように、露伴文学が初期の浪漫主義的作風から第2期の写実主義への接近、第3期の史伝へという変遷を見せたというのであれば、露伴と教養の質に差異のある森外の作風の変遷とも見合うものもあるわけだし、もう少し両者の共通面の、拠って来る所以のものにも言及があってしかるべきではなかろうか。乱暴な言い方をさせてもらえば、案外露伴も、外に限らず、日本の近代文学者たちの多くが突き当ったと同じ西洋近代の壁に、またそこに引き起こされた共通の諸問題に逢着していただけかもしれないのである。

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