戦後教育は変われるのか―「思考停止」からの脱却をめざして―

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貝塚茂樹 著

「宗教新聞」 530号(2008年6月5日)

議論の土俵づくりから始めよ

著者は日本の戦後教育改革の歴史を専門とし、とりわけ道徳教育の展開について詳しい。近代に始まった日本の公教育において、最も難しいのが道徳だったといえる。修身のあった戦前では容易だったような印象があるが、著者の研究によると、担当教師はその難しさを率直に吐露している。戦後、道徳教育の必要性を唱えた天野貞祐元文相も、戦前では修身の厳しい批判者であったことは、その難しさを表していると言えよう。

戦後、修身科に代えて公民科の設置が日本側で構想されたが、占領軍民間情報教育局(CIE)の関与により、社会科へと変容した。この背景には、人格の完成を目標とする日本の教育と、よき社会人の育成を目指す米国の教育との違いがある。それが半ば強制されたため、日本は戦前の修身教育を清算する機会を失い、戦後のあるべき道徳教育の理念と内容があいまいになった、と著者は言う。

加えての不幸は、道徳が教育界のイデオロギー闘争のシンボルとされたことだ。昭和三十三年の「道徳の時間」設置に向け、文部省が開いた指導者講習会は、お茶の水女子大学での開催が、日教組の妨害により急遽(きゅうきょ)、会場を変更せざるを得なかった。そんな不毛な政治対立の長い時代を経て、今やっと道徳が冷静に議論できる時代になったという。

しかし、政治対立に代わって教育が直面しているのは、市場原理主義と教育の私事化だ。それは一九六〇年代以降の高度成長期から始まり、民間からの校長起用や学校に対する家庭の比較優位として現れてきた。そのため、今後の道徳教育は公教育の再生という課題と表裏一体で議論する必要がある、と著者は主張する。

心配なのは、政治対立で思考停止の状態を続けている間に、道徳教育法を習得しない学生が教師となり、ますます道徳教育の空洞化が進んでいることだ。同じことは宗教教育についても言える。著者が言うように、まずは理論的な議論の土俵づくりが必要だろう。

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