日本銀行総裁 結城豊太郎 ―書簡にみるその半生―

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八木慶和 著 齋藤壽彦 監修

日本金融学会 『金融経済研究』 2008年4月(第26号)
鈴木恒一 
(元文教大学)
 

戦時期に大蔵大臣や日本銀行総裁を務めた結城豊太郎に宛てられた書簡が、彼の出身地・山形県南陽市の「臨雲文庫」に所蔵されている。長年その解読作業にあたってきた著者が歴史的に意味のある書簡を選んで、それをもとに結城豊太郎の半生を描いたのが本書である。書簡というのは、第三者の目に触れることを予想せずに書かれているだけに、歴史の真実を内包している場合が少なくない。戦前から戦時にかけて、日本銀行、安田保善社、日本興業銀行、大蔵省の要職にあって、いろいろな事件や政策にタッチしてきた結城だけに、書簡を通じてその半生に迫ろうという試みは、金融史研究の観点からも興味ある作業である。もっとも歴史研究にとっての必要な材料という点でいえば、内容の精粗・体系性などから見て、書簡には大きな限界があるし、反面、何気ない文面に実は重要な意味が含まれているという場合もある。したがって、本書の夕イトルが「書簡にみる」と謳っても、書簡のみで全体像を見ることは不可能で、著者はそうした書簡の限界を克服するために、多くの資料・文献を駆使し、また著者が長年勤務した日本銀行で得た豊富な蓄積を活用して、結城の半生を描き出すことに成功した。

本書は、時期的には 1904年(明治37年)結城が日本銀行に入行し、第2次 世界大戦後の1951 年(昭和26年)に逝去するまでをカバーしているが、その内容は結城の個人史ではなく、結城がかかわった金融史上の重要な事件や政策を中心に叙述されている。具体的には、第1次世界大戦後の経済混乱期における日本銀行名古屋支店長・大阪支店長としての活躍、安田保善社専務理事(1921〜29年)時代における安田財閥近代化のための施策、日本興業銀行総裁(1930〜37年)として推進した同行の積極融資政策、日本銀行総裁(1937〜44年)時代の戦時金融政策の運営や金融体制に関する施策などが本書の中心を構成している。また大蔵大臣(1937年)としては在任期間わずか4カ月足らずの短期であったが、大きく軍部寄りに舵をきった馬場財政の後だけに、結城財政をめぐる当時の雰囲気を伝える材料も興味深い。

以上のような戦間期・戦時期における日本の金融の展開をめぐって、本書にはいくつかの興味ある、注目すべき内容が含まれている。その1つは、1918年の東京・大阪の預金利子協定に関する記述である。預金利子について何らかの規制を加えるという方式は、日本のみならず海外においても戦前から金融秩序維持のための手段として実施され、そしてそれは実質的に戦後に引き継がれてきた。それだけに預金利子協定についてはすでに多くの文献や研究が蓄積されているが、本書は1918年の協定成立のプロセスを生き生きと描き、協定成立についての日本銀行の関与とその間における結城大阪支店長の活躍を明らかにしている。経済史研究において、政策形成のプロセスを解明したいと考える秤究者は少なくないが、実際にはそれはきわめて困難な作業である。しかし本書は、書簡という材料を得て、預金利子協定の歴史の中で重要な意味を持っている1918 年の協定成立の実相に迫ることができた。

次は、結城の安田保善社専務理事・安田銀行副頭取時代に関する部分である。結城は次々と果敢な改革を実行したが、それに対する反撥も強く、それが再三内部抗争に発展し、結局1929年、不本意な形で安田を去ることになる。安田時代に起きた、結城をめぐるいろいろなトラブルの原因について、結城の性格や強引な手法を問題視する見方もあるが、事の本質は改革派と守旧派の対立であり、今日、結城の改革は安田近代化の第一歩として内部からも高く評価されている(例えば『富士銀行の百年』)。改革に抵抗を伴うのは世の常であり、またそれが深刻な事態に発展したことについては、そこにいろいろな要因が絡んでいたであろうことは容易に想像される。そうした複雑な問題であるが、本書は、結城と反対派との抗争の経過を各種資料によって丹念にフォローすることによって、抗争の本質が安田近代化をめぐる路線対立であったという見方に説得力を持たせている。

結城の経歴からすれば、次は日本興業銀行総裁時代、大蔵大臣時代ということになるが、紙数の制約もあり、この部分については触れずに、最後の日本銀行総裁時代に入ることにしよう。この時期は全体が戦時期という特異な期間であり、その特異性のためか、これまでの研究の蓄積は比較的少ない。しかし戦時期にできた金融の枠組みで、戦後に引き継がれ、あるいはその影響を引きずったものは決して少なくない。その意味で、戦時金融の研究はもっと進められるべきだ、とつねづね評者は考えている。そうした戦時金融についての史的研究という視点からも、本書は高く評価されるべきである。ここで本書に盛られたいくつかの興味ある史実を挙げると、日本銀行法制定の経過、都市銀行の合同問題、戦時金融金庫設立と日本興業銀行の関係などがある。これらの諸問題はいずれも事実そのものは周知のことであるが、日本銀行法制定をめぐる大蔵・日銀の対立とその交渉経過についての叙述は興味深いし、さらに都市銀行合同・戦時金融金庫をめぐる問題については関連した書簡が生々しい当時の雰囲気を伝えている。このほか結城が官治的な金融統制を避ける意図で、金融界の自主統制組織「全国金融協議会」の設立を主導した経緯、さらには満州中央銀行総裁人事をめぐる書簡なども注目される。

以上のように結城の活動は、戦間期・戦時期の金融の重要な事象に広くかかわっていたが、本書は、書簡という材料によって多くの資料を補完し,また結城をめぐる対人関係を追いかけるスタイルをとることによって、戦間期・戦時期の金融の歴史を臨場感のある叙述で明らかにしたところに特徴がある。同時に本書は、そうした事象をフォローすることによって、結果的に当時の金融の動きを時系列的に理解しうるというメリットを持たせることができた。また本書全体の叙述を通して、そこに結城の公人としての全体像を強く浮かび上がらせている。そこで最後に、結城という人物が評者にどのように写ったかということを述べてみたい。

本書は本文の最後で、日本銀行総裁としての結城を「挫折の総裁」「悲劇の総裁」であった(446ページ)と結んでいる。これはどういう意味であろうか。あえて評者の推察を許して頂けるならば、結城は決して全体主義者でもなければインフレーションニストでもなかったにもかかわらず、戦時期という不幸な時期に日本銀行総裁という任にあったばかりに、こと志と異なり、異常な通貨膨張と激しい戦後インフレーションという結果を招いてしまったということであろう。確かにあの狂気の時代ともいうべき戦時期において、誰が日本銀行総裁であったとしても、「健全通貨」など守れるわけはない。そうした困難な環境にありながらも、結城が少しでも「健全通貨」路線を守ろう、官僚による経済統制を避けようと努力したことは、本書の叙述からも明らかである。その意味で、本書の結城に対する評価は首肯できる。

そういった基本的評価を認めながらも、評者は若千ニュアンスの異なる感想を持つ。本書を通読して評者が持った、結城という人物についての印象は、きわめて有能かつ実行力に富む実務型リーダーではなかったかということである。このことは、いろいろな金融問題について、結城がしばしば適切な施策を提言し、その実現に力を尽くしたことに表われている。ただ中央銀行のあり方についての結城の考え方は、本書にも登場する。先輩にあたる井上準之助や深井英五に見られる正統派のそれとはやや異なる。事実、結城総裁の下で日本銀行の政策路線は商業金融中心主義から産業金融重視に大きく転換した。本書でも述べているように、これは政策思想の転換であり、同時に戦時という時代の要求でもあった(360〜365ページ)。そうした時代の要求に応える素地が、結城の性格や能力、中央銀行についての考え方にあったのではないか。つまり、どのような状況にあっても一応の答を出すという実務型の優れた資質、中央銀行のあり方についての弾力的姿勢、これが結城の特色であり、それは戦時体制において日本銀行総裁に求められた要件であった。その意味で、結城は戦時という特異な時代が求めた総裁であったと考えられる。結城自身もまた、当時の状況の厳しさを十分認識しながら、その中でベストは無理としても、ベターを実現できるのは自分しかいない、という自負があったのではないか。そのように考えると、結城が「挫折の総裁」となり、「悲劇の総裁」となった原因の一斑は、実は結城自身に内在していたといえるのではないか。これが本書を読了して評者が抱いた結城の人物像についての感想であった。

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