日本銀行総裁 結城豊太郎 ―書簡にみるその半生―

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八木慶和 著 齋藤壽彦 監修 

日銀旧友会 『日の友』 397号(2008年7月20日)
鈴木恒一

八木慶和氏 渾身の労作

長年、『日本金融史資料』や『日本銀行百年史』の編纂作業で活躍された八木慶和さんが、昨年、学術出版会から表記の著作を出版された。ページ数にして462ページに及ぶ、第十五代総裁結城豊太郎の本格的評伝である。八木さんが本書を完成させるまでの事情については、本書の「はしがき」に詳しいが、一言でいえば、かつての上司でもあった故吉野俊彦・元理事からの依頼によるものであった。

吉野氏が土屋喬雄東大名誉教授とともに、結城の郷里・山形県赤湯町(現在の南陽市)の臨雲文庫に保管されている結城関係書簡の重要性に着目されたのは、調査局内国調査課長の頃だというから、随分古い話である。吉野氏は、いずれこの書簡を材料として戦前・戦時期の金融経済史を纏めたいという構想を持っておられたようであるが、その後も多忙な日々が続いたため、その構想を実現することなく長い時間が経過した。

そして昭和六十年代に入って、『日本銀行百年史』編纂作業を終えて母行を退職された八木さんに、この作業の継続を委託されたのである。八木さんの専門的能力とお人柄に対する、吉野氏の並々ならぬ信頼があったからこそのことであろう。

結城豊太郎は、明治三十七年、日本銀行に入行し、名古屋支店長・大阪支店長を務めた後、安田保善社専務理事に転じ、さらに日本興業銀行総裁・大蔵大臣・日本銀行総裁などを歴任した。名古屋支店長になったのは第一次世界大戦中の大正四年、日本興業銀行総裁就任は金輸出が解禁になった昭和五年、大蔵大臣次いで日本銀行総裁に就任したのが日中戦争が勃発した昭和十二年と並べただけで、結城が日本経済の激動期にいかに重要な役割を演じていたかが分かろうというものである。

本書は、そうした結城の活躍を時系列的に追う形で記述されているが、結城がそれぞれの時期に要職を占めていたから、本書の内容は結果的に戦前・戦時期の日本金融史を辿るのに近いものになっている。

ここで本書の内容を簡単に紹介しておくことにしよう。

まず序章と第一章は、日銀入行から大阪支店長までの時期である。ここでは紐育代理店監督役付時代の勉強振りや第一次世界大戦期・戦後期の経済混乱に対して具体的な政策提言を続ける有能な政策マンとしての結城が描かれている。

第二章は安田保善社時代である。ここで結城は安田財閥近代化のための大改革に努力し、着実な成果を上げたにもかかわらず、その後反対派の強い抵抗にあって結局不本意な形で安田を去ることになる。その間の事情がかなり詳しく述べられている。

第三章は興銀総裁時代である。ここでは不況に苦しむ産業界に積極的な救済融資を実行し、財界において次第に大きな力を持つようになる経緯が語られている。

第四章の大蔵大臣時代は、軍部寄りに大きく舵を切った馬場財政の後に登場した結城財政をめぐる当時の雰囲気がよく伝えられている。

さて日銀総裁時代の第五章は、いわば苦悩する結城の姿を描き出しているが、この点については後にまた触れることとしたい。


本書の特徴は、副題にもあるように、叙述の材料として結城関係書簡が用いられているところにある。書簡の大部分は結城が受け取ったもので、差出人は交友関係にあった経済人が多い。書簡というのは、第三者の目に触れることを予想することなく書かれているから、ことの真実や裏面の事情を伝えていることが多く、その意味で歴史研究にとって貴重な資料である。

本書にも、第一次世界大戦終了直後に成立した市中銀行の頂金利子協定に日銀が関わった状況を伝えるもの、また太平洋戦争開戦によって浮上した戦時金融金庫の設立をめぐって興銀総裁が結城日銀総裁にその阻止を訴えている書簡など、注目すべき貴重なものが含まれている。

ただ書簡には、体系性もなければ、内容の精粗もまちまちで、資料としての限界もまた大きいから、歴史の叙述にあたっては書簡以外の多くの文献・資料に依存しなければならないのは当然である。その点で八木さんは、長年、日本金融史研究の業務に携わってきただけに、そうした文献・資料に精通しておられた。本書には、その豊富な蓄積がいかんなく生かされており、それが記述の内容に説得力を持たせている。

本書の内容はかなり専門的なものではあるが、文体は読みやすく、堅苦しさを感じさせない。例えば、日銀入行をめぐる苦労話など、興味深いエピソードが随所に散りばめられ、結城の人物像を浮かび上がらせるのに役立っているし、また数多い登場人物についても生き生きと描写され、それがまた本書の魅力の一つになっている。


結城の日銀総裁在任期間は、そのまま日本の戦時期と重なる。そのような困難な時期にあって、結城は何を考え、何を為そうとしていたのであろうか。

この疑問を解くのはなかなか難しい作業であるが、日銀総裁時代を扱った第五章はあえてこの間題に答えを出そうとしているようにみえる。そこには、日中の平和回復を願う結城の姿があり、経済統制が強化される状況のなかで、官僚による金融統制を避けようとする努力や、日銀法政府案に抵抗する経過が語られている。また膨大な軍事費の調達に協カしながらもなんとか健全通貨路線を守りたいという苦悩にも触れられている。

やがて結城は次第に政府や軍部との対立を深めていく。そして結城の願いや努力もむなしく、結局日本は悲惨な結末を迎える。八木さんは本書の最後で、こうした結城の姿を「挫折の総裁」、「悲劇の総裁」であったと結んでいる。私には、この表現に八木さんの結城総裁に対する敬愛の情が滲んでいると感じられた。


八木さんが吉野氏の依頼で結城書簡に取り組んでから二十年以上の年月が経過した。その間、残念なことに吉野氏は本書の完成をみることなく、鬼籍に入られた。こうした事情もあって、その後金融史に詳しい齋藤壽彦教授(千葉商科大学)が監修の労をとるとともに、出版に漕ぎつけるまでにいろいろ尽力された。八木さんの仕事を高く評価されたからである。

いま八木さんはちょうど八十歳台の半ばである。母行退職後の八木さんは大病を患ったこともあり、これまで平穏な老後の日々を送ったという訳ではない。しかし八木さんの向学心・研究心はまったく衰えをみせず、千葉商科大学経済研究所の客員研究員を務めたり学術誌に論文を発表したりといった活動を続けてこられた。元気な高齢者が多い昨今とはいえ、八木さんのこのバイタリティ・精神カには全く脱帽せざるをえない。

激動の戦前・戦時期に大きな足跡を残した結城豊太郎について、これまでに書かれたものは極めて少なく、その業績の全貌を学術的視点からの評価にも耐えうるような形で纏められたものはなかったと言ってよい。それが本書の出版によって漸く実現した。しかもそれが日銀OBの手によってできたというのは嬉しい限りである。

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