人事労務管理制度の形成過程 ―高度成長と労使協議―

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岩田憲治 著
 

労働政策研究・研修機構 『日本労働研究雑誌』
No.562(2007年5月号)
田口和雄 (高千穂大学経営学部准教授)

 

1 問題意識と研究方法

バブル経済崩壊後の経営環境の変化の中で人事労務管理の制度や慣行が変容しつつある。これまで不況のたびごとに人事労務管理の制度・慣行が改訂されていたが、それらは部分的な改訂にとどまっていた。しかしながら、平成期に行われている改訂は、これまでのとは違うことを著者は長年実務に携わってきた経験から感じ取っているようである。

そのために著者がとった選択は、職業生活を過ごした企業(松下電器)を題材に、現在の人事労務管理の制度・慣行の基礎が高度成長期に形成された過程を丁寧に描くという研究手法である。つまり、人事労務管理の制度・慣行が新設・改訂された過程における労使協議の実態、とくに経営側、労働組合側双方の意図とその背景を中心に両者の関係資料、および当時の関係者への聞き取り調査によって明らかにするという研究方法である。この時代の労使関係に関する先行研究は数多くあり、しかも多岐にわたる議論が行われていことから、著者は以下の3つの作業仮説を立てて検証している。

【作業仮説1】生産労働者の賃金体系が変更されるのは技術革新の影響以外にもあるのでないか。
【作業仮説2】労働条件の向上は労働組合の交渉力だけではなく、経営側の主導もしくは容認があったのではないか。
【作業仮説3】1970年代後半から急速に進んだ経営参加の制度化には経営側、労働組合側双方にどのようなねらいや意図があったのか。

これらの点を踏まえて、本書の目的を経営環境の変化によって「人事労務管理が変容する中で、守るべき制度・慣行の示唆をえること」としている。
 

2 本書の構成とその概要

以上の問題意識と研究方法を序章「課題と方法」で論じたうえで、第Ⅰ部から第Ⅲ部において作業仮説1から作業仮説3を検証し、それを踏まえて終章「要約と結語」で結論を提示している。

―第Ⅰ部 賃金体系の改訂
第1章 仕事給(職務給または職能給)の導入
第2章 労働組合による査定受け入れ
第3章 電機産業における仕事給の導入

―第Ⅱ部 労働条件の向上
第4章 週休2日制への過程
第5章 大幅賃上げと生産性向上

―第Ⅲ部 経営参加
第6章 消費者運動と企業別労働組合
第7章 経営参加の制度化
補 論 三菱電機の経営参加

作業仮説1「技術革新以外の要因による生産労働者の賃金体系の改訂」を検証する第Ⅰ部では、高度成長期に行われた賃金体系の改訂(仕事給の導入)(第1章)と労働組合による査定の受け入れ(第2章)に注目して、それらにおける経営側と労働組合側双方の意図とその背景について分析している。さらに、こうした改訂は電機産業、とくに松下電器の業容と同じ家電企業に共通していることを、家電企業2社(三洋電機、シャープ)と重電部門をもつ電機企業2社(日立、東芝)、それぞれのケーススタディと比較分析を通じて検証している(第3章)。

鉄鋼業等でみられた技術革新による仕事内容の変化が賃金体系改訂のきっかけになったことが松下電器では確認されず、むしろ「商品市場の拡大により従業員数が増加し、そのため大量の従業員を公平に処遇する制度の確立が必要であったこと、そして労働組合の一律配分要求に対抗する明確な経営側施策が必要であったこと」が改訂のきっかけとなり、加えて組合員意識の変化による組合路線転換(対抗的労使関係路線から相互信頼的労使関係路線へ)が仕事給導入を実現可能にさせた。さらに仕事給導入が松下電器だけではなく、三洋電機、シャープなどの家電企業でもみられ、しかも組合員意識の変化による相互信頼的労使関係への組合路線の変更がその要因であることを考察している。なお、電機企業でも日立、東芝における仕事給導入の背景が異なるのは「戦前から行っている重電事業の熟練が戦後の技術導入によって分解されて、生産労働の態様が変化したからである」と指摘している。

労働組合が査定を受け入れたのは、先行研究が主張する技術革新、仕事の変化、高学歴化などによるのではなく、組合内部の路線対立の結果、「相互信頼的労使関係路線に変わり、労使の意思疎通が良くなったこと、そして組合が賃金体系(仕事給)を自らの手で設計した過程で組合員が内容とその公平性をよく理解し、納得したことである」と考察しており、人事労務管理の制度・慣行の改訂における労使協議の重要性を主張している。

作業仮説2「経営側の主導もしくは容認による労働条件の向上」を検証する第Ⅱ部では、高度成長期における経営側主導による所定内労働時間短縮の意図とその背景および労働組合側の対応(第4章)と、大幅賃上げと生産性向上をめぐる経営側と労働組合側双方の意図とその背景(第5章)を取り上げて分析している。

労働力の確保が週休2日制導入の目的であると指摘する先行研究に対して、著者は経営側が欧米企業と互角の国際競争を行うには経営の国際化が必要であると考え、その一環で労働条件を先進国なみの水準に引き上げるために週休2日制を導入したと論じ、それに伴う労働強化の問題に対して、労使は相互信頼的労使関係のもとで丁寧な対応策を講じたと述べている。

もう1つの代表的な労働条件である賃金水準についても、ヨーロッパなみの水準に引き上げられ、労働条件の向上に伴うコストの増加を労働強化ではなく、事前協議制に基づく生産性向上によって吸収することが労使間で共有されていたことを考察している。

作業仮説3「労働組合の経営参加の制度化における経営側、労働組合側双方のねらいや意図」を検証する第Ⅲ部では、労働組合が経営参加(企業の管理・運営への参加)を要求するようになった消費者運動をめぐる労働組合の対応(第6章)と、その後の1970 年代半ばの松下電器における経営参加をめぐる労使双方の意図とその背景(第7章)を取り上げて分析している。さらに松下電器の事例が単なる特殊事例ではなく普遍性があることを三菱電機における経営参加のケーススタディを通じて明らかにしている(補論)。

松下電器におけるカラーテレビ不買運動と森永ミルク中毒事件が解決したのは、「相互信頼的労使関係のもと、消費者団体または被害者同盟などと経営側との間の意思と情報の仲介を果たす局面で、労働組合が市民としての意識を基礎として行動した」ことであると述べている。つまり、企業別労働組合が利害相反する企業の論理(企業は利益の最大化を目指して活動する)と社会の論理(消費者運動は健康で文化的な市民生活の維持・向上を達成する)の両方を併せ持ち、しかもどちらかに偏らずバランスを保ちながら消費者問題に取り組んだと著者は主張している。

また、経営参加の制度化は、長期雇用の保障を中心とする労使間の相互信頼関係のもと、雇用確保と労働条件の維持、企業と社会との調和を図ろうとする労働組合側の意図と、経営参加を通じた経営情報の共有と労働組合側の発言が労働者の動機づけにつながるとする経営側の考えが一致したことによるものであったと論じている。

終章では、以上を通して検証してきた内容を整理したうえで、高度成長期に形成された人事労務管理の制度・慣行のうち、「経営側と労働組合側が互いに意思を伝え協議できる制度・慣行」が今後も守られるべきであると結論づけている。この制度・慣行は相互信頼的労使関係を維持していくうえでの基盤となるものであり、「経営の円滑な運営に貢献するとともに、社会の安定に寄与するものである]と著者は主張する。
 

3 本書の意義と若干のコメント

以上が本書の主たる内容である。本書の意義は高度成長期の労使関係に関する先行研究で十分に明らかにすることができなかった労使協議の実態を労働組合側の内部資料や当時の関係者へのインタビューだけではなく、経営側の内部資料および関係者のインタビューなどによる複眼的な分析と、長年にわたり勤務していた企業での実務経験をもとにした外部の研究者から窺うことのできない深い考察によって描写されている点である。さらに検証を通じて明らかにされてきた特質は松下電器だけの特殊性ではなく、電機企業に共通した流れ(普遍性)であることを裏づけるため、他企業のケーススタディを行うことによって重層的な検証を行っている。このように体系的なフレームワークをもとに緻密で時間と労カを要する歴史研究に取り組んでいる著者の姿勢に敬意を払いたい。

以上の本書の功績を紹介したうえで、若千であるが私見を述べさせてもらいたいと思う。終章で松下電器が電機大手企業とほぼ同時期に類似の制度・慣行を導入した背景を「共存共栄」の経営理念であるとし、この理念が経営戦略や施策を作成する際の基礎となり、人事労務管理の制度、慣行に影響を与えていると論じている。たしかに、経営理念は企業が経営戦略の策定や組織の構築を行ううえで重要な役割を果たしているが、その一方で時代の経営環境の影響も受ける。こうした経営理念と時代の経営環境のもとで経営戦略や組織がつくられ、人事労務管理の制度・慣行はそれらに沿うように設計されているが、この観点からの考察が十分に行われていないように思われる。作業仮説の検証では丁寧に議論を展開してきていただけに、経営理念と人事労務管理の制度・慣行との間をつなぐ経営環境の変化と経営戦略や組織との関係についても外部の術究者からは窺うことのできない著者の深い考察をしてもらいたかった。現場をよく知る著者が丁寧な議論を展開することによって、新しい人事労務管理の制度・慣行の構築に向けて模索している労使に示唆を与えることができよう。

丹念な研究がなされている本書に対してさらに欲張った私見を述べさせてもらったが、本書の功績は高く評価されよう。著者の今後のさらなる研究を心から期待したい。

中国人の日本語学習史 ―清末の東文学堂―

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劉 建雲 著

中国研究所 『中国研究月報』 第61巻第8号(2007年8月)
汪 婉 (共立女子大学)

本書は、清代の末期、中国国内で日本語教育がいかに展開されていったかを考察し、特に当時、中国人が日本語を学ぶ場としての役割を果たした「東文学堂」を中心に、日本語教育・学習の実態を明らかにしたものである。加えて近代以前(明・清)の中国人による日本語研究の状況も視野に入れて論じようとしている。徹底した史料調査に基づいた緻密な実証研究である。これまで、中国人の日本語学習を歴史的に記述する視点は、日本の植民地的言語政策という批判的なものが多かった。本書は、日清戦争後の中国史上初の日本語学習ブームを主な時代背景とし、中国人の側から見た中国人の日本語学習の場、そこに展開される日本語教育・学習の実態解明を試みた研究書である。日本語教育学習史をより豊かなものへと育てる重要な研究といえよう。なお本書は著者が岡山大学大学院文化科学研究科に提出した博士論文を加筆・修正し、再構成されていることを付言しておく。

まず構成にしたがって内容を概観したい。本書は、序章、全7章の本論、および終章から構成される。第1章では、近代中国における本格的な日本語教育が始まる以前に存在した、中国人による日本語認識・日本語研究について考察している。明清両代の日本研究書を博捜し、そこに見られる日本語に関する論述をピックアップして、その情報の発信源から分類・分析した。明清両代の日本語研究が連続性に欠ける原因について、「日本語の学習を伴わない日本語研究」 にあると指摘している。さらに、清末の黄遵憲の日本語研究についてとりあげ、清末の漢字改革に寄与するという意図、研究の画期的な意味、日本語習熟者ではないという限界など、緻密な考察が行われている。特筆すべきところである。

第2章では、明代の外国語教育と日本語、清代の同文館における「東文館」の開設の問題について考察している。特に中国国内における日本語の正規教育が、1897年3月、清朝の官立外国語学校であった京師・広州両同文館で始まったとの事実究明は、清末中国人の日本語学習の動向とその実態を把握する上で重要な意味をもつ。さらに、京師同文館における外国語教育の基本方向は「以漢翻洋」(漢語によって外国語を翻訳する)であり、それは後に速成を目指す多くの東文学堂の出現の一要因となったことを指摘している。

第3章「清末に蔟生した東文学堂」では、日清戦争後の激動する国際情勢の中で、日本語学習の場となった「東文学堂」を中心に、中国史上初の日本語学習ブームの実態を明らかにしている。

「東文学堂」を、「中国人を学習の主体・教育の対象とし、主に日本語教育あるいは日本語を通して普通教育を行う、日本人または中国人が設立した学校のことである」(92頁)と再定義するとともに、清末中国の東文学堂を中国人設立・日本人設立および中日共同設立の3種類に整理し、その設立の動機や資金管理、教育運営などを具体的に検討している。清末東文学堂の全体像を明らかにしたところに大きな意義がある。東文学堂の教育目的について、日本語を教授する学堂、日本人教師の力を借りて近代的基礎教育を行う学堂、「見識の養成、体カの練磨」を目的とする学堂、日本留学予備校の性質をもつ学堂など、教育目的が多岐に分かれていたことを指摘している。

中でも、特に東文学堂の「唯一の成功例」として注目された福州東文学堂、およびこれまで研究の対象とされることがなかった東本願寺の東文学堂、さらに生徒と教師の人数が最も多かった北京東文学社について、第4・5・6章において、その設立の時代背景、学堂運営をめぐるさまざまな勢力・団体・個人の活躍・衝突・協力などについて考察している。特に東本願寺は、いままで教団史研究の中で清国布教活動の一環として取り上げられただけで、東本願寺設立の東文学堂に関する研究はほとんど存在しなかった。教育機関・教育事業としての側面に関する事実解明には重要な意味を持つ。著者は東文学堂をめぐる日本人の関与について、「日本人の教育事業や関与の背後には常に国策に基づく勢力拡張の意図が働いており」、と指摘する一方、「教育の場で多くの教育熱心な日本人教師の努力が……中国における前近代教育、及び日本語教育という日中文化交流の基盤に足跡を残した」(258頁)と評価している。

第7章では、清末中国人の日本語学習の実態を考察している。学習者の動機と教師が抱えた課題を分析し、中国人学習者の「速成」要求に迎合して、「和文漢読法」と「漢文和訳法」といった文章語に即した速成的日本語教授法が流行っていた事実を明らかにした。清末中国における日本語学習ブームの実態を解明する上で重要な意味を持つ。さらに、現場の教師が使用した教材・教科書などの具体的な資料が見付からない原因として、日本人教師の流動性が激しいこと、日本人教師の関心が常に日本語教育以外にあることなどを指摘している。このような全体状況の中で、広州同文館における長谷川雄太郎の実践や、彼の書き残した記録に関する考察は特筆すべきところである。

終章「結論と課題」は、本書の総まとめであると同時に、成立論における著者の取り組みを改めて目的意識から述べるとともに、今後進むべき道を提示する。

以上で、本書の概要を述べたが、以下、若干の疑問点・意見を列挙しておきたい。

清代の同文館、特に清末の東文学堂に関する研究は、歴史学や教育史学および日中文化交流史などの分野において、実藤恵秀をはじめ佐藤三郎・汪向栄・阿部洋・中村孝志・細野浩二など数多くの研究者の努力によって着実に積み重ねられてきた。本書の特色はなによりも、従来の個別事例の研究――個別の東文学堂・日本人教習の活動・明治日本の対華教育工作・日本語教科書の研究などを超えて、清末に現れた東文学堂の実態の全容を明らかにしたことである。この点に関しては、評価すべきである。

しかし、著者が先行研究の間題点として特に指摘したのは、「その時代を生きた中国人の日本語学習の要求」や「日本語学習の主体側の視点を抜きにしている」という点である。「中国人の日本語学習史」とのタイトルをもつ本書は、その最重要な視角として、「序章」によれば、「中国人の日本語学習を明確に研究対象としてとらえ」、清末中国人の日本語学習の実態を解明する(11頁)ことを提起している。これは著者の独自の視座と対象設定といえよう。しかし、本書を読み通してみると、中国人の日本語学習の実態を考察したのは第7章だけで、著者の関心はつねに「中国人の日本語を学習する場」に走ってしまう。そこにはとりたてて目新しい視点はない。さらに、文中、「日本語教育」と「日本語学習」を混同して考察・分析するのも気になるところである。

明清両代の中国人の日本語研究について考察した第1章では、著者が取り上げる史料の多くは中国人の「日本語研究書」というより、「東遊日記」を含む中国人による「総合的な日本研究書」である。このような史料の制限もあり、日本語研究の情報の発信源を指摘してはいるものの、日本語研究の実態解明にはまだ不十分であると思う。さらに、日本の国語学分野で上述の史料に基づいた豊富な研究成果がすでに存在する状況に対して、著者は、中国人の日本語研究史という視点から全面的に分析・考祭しようと意欲的であるが、黄遵憲の日本語研究について丁寧に考察されたほかは、明清両代における中国人の日本語研究の全体像を浮き彫りにするにはまだ不十分であり、詳細な考察は今後の課題として残されている。

清代の京師同文館および「東文館」の設立に関する先行研究が少なくない中、第2章の特色はやはり「日本語学習の主体側に視点を置く」ことであろう。しかし、同文館の外国語教育の長い歴史の中で日本語教育が短いものであったこともあり、史料不足のため、論述が設立の経緯や時代背景の分析に集中し、中国人の日本語学習に関する実態究明は見られない。この章の第3節にせっかく「同文館の日本語教育」(正確には京師同文館)という一段落を設けているものの、「史料が不足のため、詳細は明らかでない。訳書が中心で、しかも常に『以漢翻洋』をもって学生の外国語習熟度をはかっていた点から、外国語教育の基本的方向が想定出来る」(87頁)と言及するにとどまっている。

本書の根幹をなす3・4・5・6章は、中国人の日本語を学ぶ場――東文学堂に関する論考となっている。その創設の目的・資金運営・組織管理・日本人教習・明治日本の対華政策など、詳細に考察をしている。各種東文学堂の特徴、学堂をめぐる創立から閉鎖または改組までの事実経過など、先行研究を踏まえて再検討を試みているが、中国人の日本語学習史からのアプローチは少ない。福州東文学堂については「中日関係史からの考察」であり、東本願寺の東文学堂については布教活動と日本の対華姿勢から分析し、北京東文学社については「教育機関として再検討」している。本書の本筋である、肝心の中国人の日本語学習については、具体的な史料や考察が少なく、せいぜい教育課程をとりあげる程度である。

著者は、「中国人設立の普通学校に招かれた日本人教習の多くは通訳を介して授業を行っていたのに対して、東文学堂では日本語教育を先行し、生徒が日本語で直接授業が受けられるようになるのを待って、普通学か、または専門学の内容を施したという点で大きな違いがある」(260頁)と指摘するとともに、「これこそが、筆者が中国人の日本語学習史の視点から東文学堂の研究をなす意味の所在である」(260頁)と強調している。しかし、この点に関する具体的な考察があまりみられないのは残念なことである。

「清末中国人の日本語学習の実態」と題する最終章では、ようやく本書の主題への考察に取り組むが、中国人の日本語学習の動機を簡単に分析したほかは、「明治期日本語の言文分離の現実」、「日本人教師にとっての日本語教育の課題」、「長谷川雄大郎の日本語教育の実践」、「時代の特徴をもつ教授法」など、考察の視点は、日本人教師の日本語教育におかれている。確かに、中国人の日本語学習の実態を解明するには、学習と教授がともに重要であるが、日本人教師の日本語教育に関する分析だけでは、中国人の日本語学習を論証したとするには不十分であると思う。

終章の部分で、著者は、「東文学堂の出現が中国の近代的学校制度確立の前夜に当った」(259頁)と指摘し、日本人設立の東文学堂および日本人教師の努力を評価して、「中国における前近代教育、すなわち近代的学校制度の確立前の近代教育」(258頁)に貢献した面があると指摘している。東文学堂の設立・存続期間が、第3章「東文学堂の概況」によれば、1898年から1908年までの間であるから、「前夜」や「中国の前近代教育」との表現は、厳密さを欠くように思う。そして、清末の東文学堂の意義について、「同文館やミッション・スクールと同じ役割を果したと言ってよい」(259頁)とする指摘もやや結論を急ぎすぎているようだ。

以上、本書の内容・意義・問題点について評者なりの紹介・評価を行ってきた。中には評者の力不足による誤読や不適切な評価もあり、批判が外在的なものになったのではないかと懸念している。ご海容を願う。

ニューディール体制論 ―大恐慌下のアメリカ社会―

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河内信幸 著

日本西洋史学会 『西洋史学』 No.225(2007年)
中島 醸 (千葉商科大学専任講師)

本書は、長年にわたる河内氏の研究蓄積の上に書かれた大著である。それは、本書が扱う対象の広さ、記されている歴史的事象の緻密さからだけでなく、注における大変多くの史資料や研究文献への言及からもうかがい知ることができる。

本書のニューディール研究としての特徴は、以下の3点にまとめることができよう。第1は、そのカバーする対象の広さである。本書は、経済史の主要なテーマである大恐慌(1章)、経済の組織化・計画化(2章)、一九三七年恐慌(8章)や経済の軍事化(9章)、政治史・労働史などが主に分析対象としてきた連邦政府の緊急救済政策(3章)、ワグナー法(5章)社会保障法(4章)、産業別組合の組織化(7章)、アメリカ共産党(11章)といったテーマを網羅的に扱っている。同時に、アメリカ知識人の運動や文学者や美術家の社会的運動(10章)、美術行政(12章)といった政治経済史ではあまり取り上げられない分野についても論じている。

第2の持徴は、歴史過程の詳細な叙述である。近年、ニューディール研究においては、連邦政府レべルでの政治過程については研究され尽くしたかのように思われており、包括的に記述するという作業はほとんどなされていない。そうした研究状況にあって、様々な社会運動との連関を踏まえて包括的に連邦政府レべルの政治過程について論じた研究は、大変有意義なものである。

第3の特徴は、戦後アメリカの政治経済体制との継続性を意識して「ニューディール体制」を分析するという視角である。河内氏は序文において、ニューディール期以降のアメリカを、「ニューディール体制」、第2次世界大戦後から1960年代までの「コーポラティズム体制」、1980年代以降の「現代アメリカ体制」と時期区分している。そして、「ニューディール休制」と「コーポラティズム体制」との「継続性」を強く意識し、前者が後者の「プロトタイプを形成し」、「『戦時体制』以降徐々に資本のへゲモニーと政府の管理・統制機能が強化され、次第に『コーポラティズム体制』へと移行していった」という視点から、「ニューディール体制」の特徴を描き出すことを本書の目的としている(35‐37頁。以下、本書への言及は頁数のみ記す)。

そうした視点から河内氏は、「 ニューディール体制」を、「ローズヴェルト政権がニューディール政策を推進しながら『ブローカー的機能を発揮して実現を目指した社会秩序であり、『社会的均衡』を図る利害調整・利益配分の仕組みを確立して、幅広い国民統合を企図した社会・経済システム」(34)と定義する。「ブローカー的機能」とは、対抗関係にある諸勢カの「利害や権限の調整を図り、それに絡む利益集団の調和を目指す」(495)機能とされる。つまり、諸利益集団の現実の社会や経済における影響力が異なっていることを前提とし、その力関係を調整するために国家が介入する機能と考えられる。「ニューディール体制」(特に後期ニューデイール)の利害調整機能は、ビッグ・ビジ不スなどの強い利益集団に対して、労働者・農民・消費者・中小企業という相対的に弱い利益集団の「桔抗力」を高めるリベラルな性格を有していた。それに対して、戦後の「コーポラティズム体制」は、圧倒的に強い「資本のへゲモニー」を受容する安定性を重視した体制として評価される(35、494、510、686)。

このニューディールと第2次世界大戦後の政治経済体制との関連は、近年のニユーディール研究の一つのテーマとなっているのである。そうした視角から「ニューディール体制」の特徴を描き出そうとする研究は重要なものと思われる。本書評では、この3点目の問題について詳しく論じてみたい。

河内氏が、「ブローカー的機能」と呼ぶ国家の社会の諸利害の調整・利益再分配機能とは、社会・経済への国家介入の拡大と捉えることができる。国家の役割については、19世紀から20世紀への世紀転換期、戦間期を経て近代から現代へと大きく変化してきたことが、これまでの国家論・政治史研究で論じられてきた。国家論研究では、現代は経済社会的領域への国家の全面的・構造的な「介入」が一つのシステムとなった「介入主義国家」という歴史段階にあると論じられた。また、ユルゲン・ハーバーマスの「民間圏だけでは決着しきれなくなった利害衝突」の政治の場面への移行という「再政治化された社会圏」の議論や山口定の「『国家』による『社会』の編成化」という指摘も、同様の議論である(註1)

河内氏の「ブローカー的機能」に着目した「ニューディール体制」の評価も、こうした文脈で理解することができよう。ローズヴェルト政権が「ブローカー的機能」を発揮して、諸利益集団の現実的な力の不均衡を前提に「社会的弱者」や中小企業への利益分配を行ったことを踏まえ、ニューディール期にアメリカが社会経済への包括的な介入を伴った体制、つまり現代的な国家へと移行したことが論じられている。しかし、それゆえにこうした分析視角は、「ニューディール体制」の歴史的な特徴を捉えることにやや難が生じると思われる。その象徴的な評価が、労働運動に対する評価であろう。

河内氏は、労働運動が1930年代に革新的性格を失い、「『ブローカー国家』の一翼を担う」「体制の受益者・擁護者としてニューディール政策の枠内」での利益集団・圧力団体としての性格を持ったと評価している(460、662、681)。確かに、労働運動がその反体制的性格を失ったことは、広義の意味では「利益集団」と言えるであろう。

しかしここで、河内氏も言及している(337)ネルソン・リヒテンシュタインの一連の研究が明らかにしているように、ニューディール期と戦後期とでは、アメリカの労働運動、特に大量生産産業などの不熟練・半熟練労働者を多く組織化した産別組合会議(CIO)に集った労働運動の性格が大きく変化したことを思い起こす必要があろう(註2)

リヒテンシュタインは、ニューディールから戦後直後にかけての労働運動は、民主党の再編、南部の組織化、経営への参加、国民健康保険制度の制定を要求として掲げており、「ヨーロッパ型の社会民主主義」的な「福祉国家」路線を追求していたと述べる。CIO系労働組合が設立した労働者無党派連盟 (LNPL)は、その組織化の対象を組合員に限定せず、黒人、移民、女性、農民など他の階層にも広げていたのである(註3)

しかし、そうした要素は、1940年代末以降、企業の成長が労働者の生活向上と密接に結びつく構造が基幹産業で作られたことを受けて大きく変化してきた。1948、49年の全米自動車労働組合 (UAW)とジェネラル・モーターズ社・フォード社との協約に、労働者の生活費算定を賃金へ組み込んだ生計費調整条項(COLA)、企業の生産性向上を賃金上昇に反映させた年次改善要素(AIF)、企業年金プランが盛り込まれ、それが基幹産業へ浸透していった。そのため、アメリカ労働運動、特に産別組合の指導者たちの考えが、政党への支持を通じて産業への発言力強化や公的社会保障の拡張を求める方向から、労働組合自身の力を重視して、個別企業の団体交渉で年金・健康保険を要求するという方向へと変化したのである。戦後労働運動は、リべラルな政策な要求するという包括的な改革構想を放棄し、自らの利益のみにしか関心を示さない狭い視野の「利益団体」となったのである。

このように40年代の自らの構成員のみの利害にしか関心のない利益集団と、黒人や女性などの他の諸階層の利害も代表する政治勢力としての性格を持った30年代の労働運動とでは、利益の範囲、政治要求の内容が大きく異なる。そのため、同じ利益集団という規定の下で「ブローカー的機能」という視角から論じることには制約が生じると思われる。ゆえに、近代的国家から現代的国家への変化に関心のある「ブローカー的機能」という分析枠組みと同時に、現代的な国家の類型化を可能とするような分析概念をも組み入れて考察することが必要なのではないだろうか。その点では、G・エスピン−アンデルセン以降、内外での研究が進められている比較福祉国家研究が「脱商品化」と労働者階級の政治への動員のされ方の違いに注目したことは参考になろう。こうした現代「福祉国家」の質的差異に注目した分析視角からニューディール期の政治体制の分析を行うことは、この一つの可能性を持っていると思われる(註4)

本書評では分析視角に焦点を当てて疑問点を提示したが、包括的な歴史叙述をしている本書は、ニューディール期の政治経済政策、社会運動を学ぶ上で欠かせない歴史書である。

(1)田口富久治『主要諸国の行政改革』(勁草書房、1928年)、ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換』)未来社、1973年)、山口定『政治体制』(東京大学出版会、1989年)。

(2)本書のリヒテンシュタインへの言及では、労働運動の質的変化に重点は置かれていない。
Nelson Lichtenstein,"From Corporatism to Collective Bargaining," in Steve Fraser & Gary Gerstle, eds., The Rise and Fall of the New Deal Order, 1930-1980(Princeton: Princeton University Press, 1989)。

(3)西川賢「ニューディール期における民主党の組織的変化に関する一考察」『法学政治学論究』第68号(2006年3月)。LNPLは本書でも旨及されているが、組織化対象の広さについては触れられていない(350、452、692頁)。

(4)G・エスピン−アンデルセン『福祉資本主義の三つの世界』(ミネルヴァ書房、2001年)。

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