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堀 孝彦 著

『日本英学史学会報』 No.119(2009年9月1日)
北垣宗治

本書は19世紀の末頃に異彩を放った先駆者的哲学者、大西祝(はじめ)の主著『良心起源論』に真正面から光を当てて、「忘れられた哲学者」大西の復権をはかることを目的に書かれた研究書である。いわゆる英学史の書ではなく、哲学・倫理学の書である。大西は同志社大学英学校時代に山崎為徳の影響をうけ、ミルトンに親炙した学生だったし、『良心起源論』にはマシュー・アーノルドの批評主義の影響があるので、英学史的に扱うことも可能であったろうが、著者は大西と同じく東大で哲学・倫理学を専攻した学者であり、また堀辰之助の子孫という独特のご縁もあって、英学史学会でも活躍している貴重な存在である。

英米のピューリタンたちは、命がけで「良心の自由」を追及してきた。だからピューリタンの伝統に立つ同志社英学校に育った大西が、「良心」を哲学的に取り上げることになったことは、まことに自然であった。彼はカントの説を踏襲しつつも、カントより一層広い立場に立つ。良心とは何かという問題を追及することは、倫理学の中心問題なのであり、それには理性と感覚の作用が分析されねばならず、すぐれて心理学的な考察とならざるをえない。

良心は道徳的感覚のいわば核にあたるもので、良心の起源を追及するために大西はプラトン的な人間理解の枠組みの中で、現実の不完全な人間が、理想としての人間へと向上することを目指すプロセスの中に良心の発露を見出そうとする。新約聖書「フィリピ信徒への手紙」3章12〜16節に表明されている思想もまた大西の考察を助けたかもしれない。大西は目的論的な世界観、人間観に立ち、機械論的な立場は取らない。

大西は教育勅語をめぐる論争に巻き込まれていく。忠孝を国民道徳の基本とする井上哲次郎に対し、大西は「国民道徳」なるものを疑い、元来道徳は普遍的なものであり、道徳の基本は忠孝を超越したところにあるとして、井上を厳しく批判した。こうして大西は「国宝の定めるところと、良心とが対立する場合には、良心の方を選ぶ」という立場に行き着くのだが、内村鑑三が受けたような迫害に直面する前に、36歳という若さで病死したことは、哲学界の大きな損失だった。

大西の論考に寄り添うようにして論述を進めている本書は、必ずや大西の復権に貢献するであろう。

(同志社大学名誉教授:英文学・新島襄)

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堀 孝彦 著

「週間読書人」 第2802号(2009年8月28日)
鈴木 正

大西倫理学の復権に挑む 研究と原典校訂によって構成

本書は「日本のカント」といわれた大西祝の『良心起源論』の研究(第一部)と、その原典に対するきめ細かい校訂(第二部)によって構成されている。

著者はこれまで『近代の社会倫理思想』(1983年)で西欧近代倫理の基本である個人の尊厳・人権といった「超越的な普遍者」の思想的意義を把握し、つぎに『日本における近代倫理の屈折』(2003年)では、それらを欠いて世俗の因習がはびこる日本での市民的倫理学の挫折を国民道徳論との対比であきらかにしてきた。そうした研究歴に立って倫理学の分野で唯一すぐれた意味での近代精神を貫いた大西倫理学を復権させようと努めている。

著者はまず「道理心」(理性)を行使した大西の批評の視座を「永久革命としての批判・啓蒙精神」とみる。良心とはなにかの根本課題を良心現象の構造(緒言・第一章)から入り、良心起源諸説の批判と道徳的理想の根拠(第二章)そして良心論の価値(第三章・付録)をとりあげて『起源論』の内容を念入りに解説している。

注目したいのは外的抑圧に抵抗する大西の「自己の独立・威厳」としての良心の自由論を強調している点である。「奴隷売買を是とする時に当て我一人は之を非とし又之を非とするが為に社会より迫害せらるる場合を想像せよ」という例を引いているところには強くひかれる。

また著者は脱線して思想史における批評の稜線の系譜に注視する。麻生義輝の哲学史に対する丸山真男の書評のなかに出てくる大西への評価を知った鶴見俊輔が「その思い出しの論理」から戦争中にも自由な考え方が消えていなかったという発言をわざわざ引いて、古典を現代につなげ、生かそうとする著者の目配りに共感をおぼえる。

著者は大西の積極的主張が自筆稿を大幅に増補した「道徳的理想の根拠」に集約されていると捉え、その「理想」概念の基底には冒頭でとりあげた批評と啓蒙の精神があるとみる。そのことが日清戦争直後の徳富蘇峰の転向に代表されるような帝国日本の現実に直面しても大西は揺がず理想主義的な社会主義の必要を唱えたと評価している。

第二部の原典『良心起源論』は、早稲田大学図書館の特別資料など六種類のテキストを用いて自筆稿を底本に『大西博士全集』第五巻を異本にして校訂し、厳密な異同を示している。この苦労を多としたい。

私は本書を研究書として読んだ。例えば中江兆民の『三酔人系経綸問答』は戦後も『明治文化全集』でしか読めなかった。桑原武夫らが多くの人に読んでもらおうと原文、現代語訳のあとに解説を付けて刊行した。両者それぞれの性格に応じて、ちがった役割を果たし影響をのこすだろう。

著者は大西を「倫理学における福沢諭吉」の位置を占める者とみているようが、キリスト教系では内村鑑三、反体制では中江兆民と並ぶ存在ではないか。末尾の教育勅語批判論文を読んで、そんな思想空間の拡がりを感じた。

私は1969年に大西の「武士道と快楽説」などをとりあげ、ストアの精神と武士の気質が通じる点から、武士道の精神に近代的理性の明識を加えた「広くせられた武士道」を発揮するのが、今日と将来の一大要務だという大西に感銘して「大西祝と武士道」を書いて以来、ずっと関心を寄せてきた。大西が伝統道徳と面と向かった理性の拡充的なあり方を省みることは、日本における近代倫理の屈折を超える手立てとなるのではないか。

(すずき・ただし氏=名古屋経済大学名誉教授・日本思想史専攻)


★ほり・たかひこ氏は名古屋大学名誉教授・倫理学・社会思想史専攻。東大大学院博士課程単位取得。著書に「近代の社会倫理思想」「英学と堀達之助」「日本における近代倫理の屈折」「私注『戦後』倫理ノート」、共編著に「『内村鑑三』と出会って」など。1931年(昭和6)年生。

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貝塚茂樹 著

教育開発研究所
『教職研修』 2009年10月号

新学習指導要領の「道徳教育の充実」に対し、「道徳の押しつけはよくない」などの批判が止むことはない。しかし、そもそも学校は「道徳の時間」にまともに向き合ってすらいない。どう効果的に運用するかを考えるべきではないか。

本書はこの認識のもと、第Ⅰ部で日本における学校の道徳教育がどう議論されてきたのかを歴史的に検討し、第Ⅱ部では新学習指導要領に基づいて、道徳教育の目的、授業計画、授業理論、方法・評価などを整理している。

そして第Ⅲ部では、道徳教育の課題、すなわち「個性とは何か」「心理主義化」「愛国心」について考察している。道徳教育にまともに向き合っていくうえで、押さえねばならない考察である。

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貝塚茂樹 著

「神社新報」 2009年6月15日
高橋陽一
(武蔵野美術大学教授)
 

「道徳教育」を学ぶコンパクトな入門書

本書は大学における教員養成のための教科書として、全三部十四講で構成されてゐる。第一部では明治の修身科から現在に至るまでの道徳教育の歴史が語られ、第二部では昨年告示された新しい学習指導要領に依拠した学校での道徳教育の実践が解説され、第三部では個性や知育、愛国心などのテーマが論じられる。

大学での道徳教育の講義は、担当者の専門分野に傾きがちであるが、本書は歴史と実践と課題にわたり、バランスをとる工夫がなされてゐる。また教育史家としての見識からさまざまな議論が紹介され、概説書とはいへ、著者が専門とする戦後道徳教育史は新しい知見が得られる貴重な内容となってゐる。

ただ戦前の記述には粗さもある。二段落の教育勅語の原文を三段落に分けて改行した資料を掲げて、「朕惟フニ我カ皇祖皇宗」で始まる部分を「私は、私達の祖先が」とする「口語訳文」を紹介してゐる。原典を任意に改行したり、君臣の秩序を意識して書かれた文章を「私」や「私達」と意訳するのは如何かと思はれる。巻末には資料として加工してゐない原文が掲載してあるが、戦後風に意訳するのではなく、歴史的な文意の説明が望まれる。

公立学校での「宗教的情操」をめぐって平行線の議論をするよりも、地域や家庭で、自在で多様な宗教教育をおこなふことが実質的な道徳教育の発展へと繋がる。そのためにも、学校教育をめぐる歴史やその困難さを考へることは、有意義であらう。いくつか批判を記したが、本書はコンパクトな入門書ながらしっかりした内容を持つ書籍であり、道徳教育に関心のある方々にお勧めしたい一冊である。

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貝塚茂樹 著

時事通信出版社
『教員養成セミナー』 2009年6月号

著者は、「はじめに」で次のエピソードを記している。大学での講義の初回、学生に道徳の授業の思い出を聞いたが、2年でやめた。それは「面白くなかったから」。教科書を読んだ、テレビ番組を見た、はまだしも、記憶にない――そんな感想が多かったという。新しい学習指導要領をはじめ、今「道徳教育」のニーズは高まっているように見える。だが、実際の道徳の授業は難しい。

道徳の副読本を愛読したヘンな?小学生だった著者は、道徳教育に真正面から取り組んできた。これほど誠実で正直な道徳教育の本もないだろう。ぜひ一読してほしい。

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貝塚茂樹 著

「宗教新聞」 第549号(2009年5月20日号)

教師は道徳教育の専門職に

大学の教科書を念頭に置きながら、一般向けに学校における道徳教育を論じている。客観的な記述で偏りがなく、道徳教育の全体像を知ることができる。

現在、週1時間の「道徳の時間」が定められていながら、副読本を読むだけなどほとんど形骸化しているのは周知の事実。著者はその原因を、イデオロギー対立による、戦後の道徳教育論議の思考停止に求める。

明治に始まった国民教育における道徳の問題は、急激な西欧化への危惧がきっかけとなり、教育勅語と修身に結実した。もっとも、これが成功したかどうかはかなり疑問なことが、実証的な研究で明らかになっている。当然のことだが、徳目を教えてその通りに育つほど人間は簡単ではない。

戦後、それらが軍国主義教育として否定される過程で、新しい道徳教育の在り方が求められたのだが、占領下という特殊な政治状況のため、十分な反省と検討が行われなかった。教育現場の関心は、「何をしてはいけないのか」だけに向いていたという。

独立回復とともに、天野貞祐文相らを軸に新教育制度下の道徳教育論議が起こるのだが、日教組対文部省の感情的な対立が先行し、教育論として深めることができなかった。

その状況が続く中、日本は高度経済成長時代に突入する。日本社会の転機を東京五輪の1964年に置く識者は多い。豊かになって助け合う必要がなくなった。日本人の価値観が私益中心に転換したのである。

バブル崩壊を経て、今や日本は新たな貧困に直面している。格差社会での博愛が求められながら、それを立て直すための教育論議は乏しい。もちろん、責任の半分は家庭にあるのだが、教育機関としての学校の役目は大きい。NHK教育テレビの番組を見せてお茶を濁すのではなく、教師には道徳教育の専門職としての技量向上が求められている。

「この自覚の根本は、教育が人格の完成を目指す聖業であるという点に成立するべきである」との天野の言葉は重い。

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山田 明 著

日本教育学会 『教育学研究』 第76巻第2号(2009年6月)
飯田浩之 (筑波大学)

「サービス・ラーニング」が国内で知られるようになったのは最近である。まして実践となると数えるほどである。タイトルに冠した書籍もほとんど刊行されていない。サービス・ラーニングは国内では新しい取り組みである。しかるに米国ではかなり以前から教育界に導入されてきた。1990年代には「コミュニティ・サービス法」などを背景に行政支援が行われ、急速に普及した。著者は、米国で普及してきたサービス・ラーニングの効果に期待を寄せ、日本の高校への導入・普及を目指している。本書において著者はその可能性を検討し、導入・普及の見通しをつけようとしている。著者が言わんとするところは明快である。日本への導入は制度的に可能であり効果も認められる。但し、普及のためには実施をサポートするシステムが不可欠である。

本書の特徴は、著者のサービス・ラーニングに期するところの大きさとその内実にある。まずはそれに耳を傾けるとしよう。

著者によれば「サービス・ラーニング」とは、「地域社会のニーズに基づき、学校の教科カリキュラム(教科学習)に関連したサービス活動を通じて社会貢献することで学びの深化を図る学習形態であり、事前準備・活動・振り返り・祝福の経過を踏んだ計画的・組織的・継続的な教育方法である。」

では何故、サービス・ラーニングなのか。第1章において著者は、行政機関が行った調査の結果のもとに、日本の高校が不登校、いじめ、高校中途退学、学力低下など様々な問題を抱えていることを指摘する。そしてこれらの問題の背景には、生徒の自尊感情の低さがあると指摘する。自尊感情は主体的な社会参加のなかで培われる。サービス・ラーニングは、主体的な社会参加の資質及び能力の涵養につながる教育方法である。それを日本の高校に導入・普及したならば、生徒の自尊感情は向上する。以て、高校が抱える問題が解決に向かって動き出す。著者のサービス・ラーニングに期するところの一つは、この点にある。

著者がサービス・ラーニングの導入・普及を主張するいま一つの理由は、高校教育改革の方策としての意義にある。この点を著者は、米国におけるサービス・ラーニングの理念と実践から引き出している。すなわち第2章では米国のサービス・ラーニングの理論とそれに期待される教育・学習効果が紹介されている。また、1960年以降の米国の教育改革においてサービス・ラーニングが果たしてきた役割が明らかにされている。そこで強調されているのは、サービス・ラーニングが規律の涵養と学力の向上をともに実現できる教育方法としていちづけられてきたことである。さらに、その効果が実証されているという事実である。翻って日本の高校教育改革の動きをみると「ゆとり」と「学力向上」の狭間で揺れている。「ゆとり」か「学力向上」かの二者択一を迫るような状況にある。この点、サービス・ラーニングは生徒のサービス活動と教科の学習を結ぶ教育方法であり、「ゆとり」と「学力向上」を共に実現できる方法である。かくしてサービス・ラーニングは高校教育改革の切り札として期待できる、というのが著者の主張である。

では、このようなサービス・ラーニングを日本の高校へ導入し普及させることは可能なのか。本書の特徴の二つ目は、制度と効果の両面からこの点についての検討が行われている点にある。制度的な枠組みが用意されていなければサービス・ラーニングを学校教育現場に導入することは難しい。実際に教育・学習効果がなければ導入・普及に意味がない。著者は第3章において、この点についての検討を執拗なほどに進めている。

まず、前者について「学習指導要領」が取り上げられる。高校にサービス・ラーニングを導入するためにはそれを「学習指導要領」のなかに位置づけることが必要である。「教育学習」においてはどうか。「普通教育及び専門教育に関する各教科・科目」「学校設定科目・教科」「課題研究」のなかで展開可能。むしろその教育効果を高めるものとしても位置づけられる。「特別活動」「総合的な学習の時間」の枠においてはどうか。「学習指導要領」を超えた導入の仕方もあり得るのでは……。実際、著者自身が関わっている「サービス・ラーニング・フォーラム宗像」の例もある。著者は、このようにしてサービス・ラーニングが制度的に日本の高校に導入し得るものであることを説いていく。

後者においては、著者が大学や高校、主宰するNPOで取り組んだ実践プログラムについて効果の実証が試みられている。使われているデータは、取り組みのなかで実施した質問紙調査の結果や振り返り日誌、参加者へのインタビュー資料などである。種々の結果が示されるなかで、サービス・ラーニングが学生・生徒の自尊感情の向上、学習意欲の高揚、主体的な社会参加の資質及び能力の獲得につながったことが示されている。

かくして日本の高校にサービス・ラーニング導入・普及の道が開かれると著者は言う。ただ、著者はその導入・普及には克服すべき課題が存在することも忘れていない。この課題の指摘に本書の第三の特徴がある。本書の第4章では、サービス・ラーニングを日本に導入する場合を視野に、米国の状況を踏まえて、その課題の検討がなされている。

ここで特に著者が力説するのは、学社連携の観点からの課題である。米国の実践は地域教育とそれを支える地域教育組織の充実によって支えられている。このことを踏まえた場合、日本においてサービス・ラーニングを導入・普及させるためには、それを支えるサポート・システムを構築することが課題となる。著者は、自身が関わっているNPOや市民フォーラムを例にNPOのような中間組織がコーディネーターとなるサポート・システム、行政と市民が協働するサポート・システムの構築を提案する。

以上、本書の特徴を述べてきた。先述のように本書の主旨は明快である。米国の実践に学び、サービス・ラーニングを日本の高校に導入・普及することで生徒の主体的な社会参加の資質・能力を培いたい。以て、彼ら・彼女らの自尊感情を高め、今日の教育問題の解決に寄与したい。それは教育方法の次元における高校教育改革に他ならない。実際、制度的な基盤も存在し、教育・学習効果も認められる。必要なのは、実践を支える地域のサポート・システムである。

著者は、米国に範をとりながら自らもそれを実践するなかでサービス・ラーニングのプログラム化を目指している。本書の主旨の明快さは、自身の実践経験に裏付けられている。その点で本書は米国のサービス・ラーニングの単なる紹介を超えている。日本における導入・普及の布石として意味をもっている。ただ、主旨の明快さは細部に拘って読んだ際に幾つかの疑問を生じさせる。触れられていないところがあるように思えてくる。

一つは、効果の実証性である。著者は、アメリカの研究を引用しつつサービス・ラーニングの効果を主張する。同時に、自身の実践で質問紙調査等を実施し、効果の検証を試みる。しかし、その検証は必ずしも妥当性・信頼性の高いものではない。使われているデータが高校ではなく大学での実践から得たものであったり、質問が米国で行われた調査の直訳であったりしている。分析においては不自然な比較がなされていたり、効果が表れていない結果について無理に解釈を行っていたりするところも見て取れる。調査対象者が実践に参加した学生・生徒であるところから、その数も限られている。確かに導入にあたっては、効果を確と示す必要があろう。しかし、果たして現時点でそれを急いで行うことが得策であるかどうか。牽強付会になりかねない効果の検証はかえって疑念を抱かせるものとなりはしまいか。著者の主旨に賛意を抱くだけに、その点が懸念される。

第二に、日本における導入・普及において地域のサポート・システムが重要であることは評者も強く感じるところである。しかし、同時に課題は学校サイドにもあると思われる。サービス・ラーニングは「計画的・組織的・継続的な教育方法」である必要がある。それを担保するものは、まずもって「学校」ではあるまいか。サービス・ラーニングの導入・普及に必要なのは、学校サイドの体制づくりである。著者は、主宰するNPOを中心にサービス・ラーニングの実践にあたっており、その立場からサービス・ラーニングの導入・普及を論じている。それはそれで立場が明確であり、本書の主旨に明快さを与えている。しかし、立場が明確であることによって視野から除外されるところも生じてくる。それが学校サイドの課題である。むろん、著者自身、この点は十分に意識していることと思われる。今後の検討に期待したいところである。

第三に、サービス・ラーニングと教科学習との関連についてである。サービス・ラーニングで重要なのは、実施されるサービス活動が学校の教科カリキュラムに関連していることである。著者がイギリスのシチズンシップ教育ではなく米国のサービス・ラーニングに範を取ろうとするのも、後者が教科学習に関連し、学力の向上に寄与し得ると見るからである。だが、その「関連」については、サービス・ラーニングが生徒の自尊感情を向上させ、それが彼らの学習意欲の向上に結びつき、結果として生徒の学力を向上させるとするに止まっている。それはそれで明確な視点ではある。しかし、それだけでよいであろうか。

一般に「サービス・ラーニングと教科学習との関連」については、「事前準備や振り返りが必要」とされるだけである。指導者の構えに帰せられて終わる傾向にある。だが、「関連」の本質に迫ろうとするならば、教科学習の拠って立つ「知」とサービス活動に内属する「知」との関連を問わざるを得ないのではあるまいか。評者の見るところ、この「関連」の問題は、「知の在り方」の問題に帰着する。この点について著者は両者の関連を、「自尊感情」「学習意欲」といった「個人の心理」で結びつけている。それはそれとして著者独自の視点であり、異論があるわけではない。しかし、この「関連」は「個人の心理」を超えて議論されるべきではあるまいか。本書の課題というよりサービス・ラーニングそのものの課題であるのかもしれないが、この点が疑問として残される。

冒頭でも述べたように日本でサービス・ラーニングについて書かれた書籍は数少ない。実践も未だ始まったばかりである。本書を通じて強く感じ取れるのは、著者の「サービス・ラーニング」への期待の大きさと、その導入・普及に向けた意気込みの強さである。本書が日本の高校におけるサービス・ラーニング導入・普及の糸口となることは間違いない。サービス・ラーニングに関心をもつ一人として、本書を糸口に日本にこの教育方法が広がり、更なる研究が行われることを期待したい。

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山田 明 著

日本社会教育学会 『日本社会教育学会紀要』 No.45(2009年6月)
西村美東士 (聖徳大学)

1.本書のねらい、構成、概要

著者は本書で、日本の高校教育改革について、次のように批判している。総合学科や単位制高校などの創設による多様化への対応に見られるような教育制度の改革を中心に進められており、教育内容や教育方法の改革は十分とはいえない。そのことが、「学びからの逃避」や高校中途退学なおの教育現象の要因となっている。

そのため、筆者は「生きる力」や主体的な社会参加の資質、能力を身につけるべき高校生の自己形成の重要な時期に有効な教育方法を、米国のサービス・ラーニング(以下SLと呼ぶ)に求めようとしている。著者は、その理由として以下の3点を挙げる。第1は、米国においてSLの教育効果が十分に実証されていること。第2は米国における導入の背景と現代日本の教育現象が類似していること。第3は、そのことによって、わが国の学習指導要領によるカリキュラム化や、生涯学習社会における学社連携に基づくサポート・システムの見通しをもたらすということである。

さらに、その検討結果について「サービス・ラーニング・フォーラム宗像」及び「むなかた市民フォーラム」のケーススタディ、著者が実施した高校及び大学における教育プログラムの効果測定アンケートによって、実証的に検証しようとしている。

本書における主な論点は、格差社会の中にある青年が、自尊感情をもち、主体的な社会参加の資質及び能力を身につけるための教育システムモデルを米国のSLに求めている。とくに自尊感情の重要性については、本書全体を貫いて強調されている。また、アンケート調査によって、SLのなかで高校生が自信をもつ等の効果があったことを確かめている。

構成は次のとおりである。序章「現代高校教育改革におけるSL研究の視座」、1章「日本の高校における教育現象」(負の教育現象、発達課題と欠損体験等)、2章「米国におけるSLの理論と実践」(学習効果、コミュニティ・サービス法、現地高校調査等)、3章「日本におけるSLの展望」(学習指導要領に基づく制度的枠組み、同要領を超えた新たな活動、先駆的事例に見る学習効果等)、4章「SLの普及とサポート・システムの構築」(米国におけるSLの課題と日本への示唆、学社連携によるシステムの課題、学校・NPOの役割、行政と市民の協働等)。

研究方法は次のとおりである。第1に、SLの求める具体的な資質項目を明らかにするため、先行調査と独自調査の結果を分析した。第2に、米国のSLについて、連邦政府、行政、大学の研究調査報告に関する文献研究を行った。第3に、わが国におけるSL導入の方法を検討するため、国内の先駆的な事例の研究を行い、あわせてアンケート調査によって効果測定を行った。第4に、学社融合によるサポート・システムの構築に関する方法論の解明のため、著者が参画する活動のケーススタディを行った。

本書は、次の点で今後のSL研究に貢献するといえよう。第1に、米国との比較研究から、学習指導要領の枠内での取り組み、学社連携による地域協働など、わが国の行うべき具体的な手だての活用方法を導き出している。第2に、SLのもつ社会参加促進効果を、高校生の自己形成及び自立の涵養という視点から検討するため、指標に基づく評価の観点を導入している。第3に、その効果を、多くは事前調査→アクション→事後調査→というサイクルで測定している。実践研究の実証方法として有効といえる。

 

2.本書の意義、課題、評価

著者は、学社連携のためのNPOに参画するなかで、高校生の心情、すなわち明るい展望がもてない社会のなかで、自己の位置決めができず、自信を失いつつある不安な状況を共感的に理解したのであろう。そして、その根本的課題解決の方法として、自身の活動の中でSLを見出したのだと思われる。「個性重視」や「ゆとり」がややもすると軽視され、社会適応や社会参画を性急に求める社会からの高校生へのプレッシャーの中で、個人の成長に焦点を合わせて、社会体験の重要性と方法を論ずる本書は、重要な意義をもつものといえる。

一方、次の課題が指摘されよう。第1に、米国との比較研究において、各指標について、より詳しく対照的に検討することが期待される。第2に、SLによる高校生の自己形成および自立の涵養に関する評価指標が不統一であるが、今後は共有できる指標として完成度を高めることが期待される。第3に、意識面の評価だけでなく、生活構造や行動化の面からの実証、さらには数ヶ月後のフォローアップ調査による効果の定着度の実証などが期待される。

また、本書が高校生の自己形成のキーワードとしている「自尊感情」の重要性について、これを前提にした論法となっているが、読者に理解できるように、その前提になる背景や根拠についての論述を充実させるべきと考えたい。自尊感情のプラス面に注目した論理に対して、マイナス面の論理も検討すべきではないかと考える。また、学校教育が「自尊感情」を育てようとするとき、「負の教育現象」や過剰教育となる危険性の有無についてもふれる必要があるのではないか。今後は、その検討の上で、SLのもつ自尊感情涵養効果を明らかにすべきといえよう。

最後に、評者の研究関心である「個人化」と「社会化」の観点から、本書への問題提起をしたい。「個人化」を「社会化」と対比させて、「個人としてより充実して生きるための能力の獲得過程」とした場合、現代社会において、自尊感情の増大は、いわば高校生の「個人化」に属する事項といえる。一方、SLは、もっぱら彼らの「社会化」を図る活動といえる。

今日、「個人化の進行が、個人のあり方を根本的な不安にさらす(Gidens, A., 1998)「ライフコースの個人化と問題解決の私化」の問題指摘(宮本みち子、2002)など、個人化のマイナス面ばかりが強調されている。だが、SLにおいては、自尊感情の涵養等の「個人化支援効果」と、社会参画意欲の向上等の「社会化支援効果」が、同じタイミングで統合的に発揮されるものと想定されよう。今後のSL研究においては、自尊感情涵養効果などに関する本書の知見のもとに、SLにおける高校生の個人化、社会化プロセスと、その統合的支援を明確に目的化した研究を進めることを期待したい。

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山田 明 著

日本生活体験学習学会 『生活体験学習研究』 Vol.9(2009年1月)

井上豊久 (福岡教育大学)

学会誌4号で「ドイツ・スウェーデンにおける生活体験学習に関する研究」(南里悦史他)にも報告しているが、本学会の文部科学省科学研究費での海外研究で学会のメンバーとともに、ドイツ及びスウェーデンにおいて調査した際、日本との違いに驚いたことの第一は、一人前の大人に育てるという方向の一貫性がヨーロッパの教育にはあるということであった。例えば、安易に大人が子供の手助けをするとは、子どもの自立性やたくましさを削ぐのでは、という根本の考えが支援の根本ではないかと感じられた。そうした中で、日本の子どもたちの自己形成の未熟さが、どこから来ているのか、「生きる力」を育成するには、どういう方法が有効で、可能性があるのか、省察する中でヨーロッパにおける「シチズンシップ(市民性)」の一般化を強く意識をさせられた。大学からが中心ではあるが欧米では、1950年代から盛んにサービス・ラーニングという手法により、青少年と社会を結びつけ、生活体験・社会体験を学習させることが、学校教育との関係でなされてきた。日本の大学では国際キリスト教大学が早くから取り組んできており、大学の講義科目としても海外実習も含んだ形で取り入れている。現在、文部科学省の国公私立大学への教育改革予算委託研究の多くは、龍谷大学サービスラーニングセンター専任教員の山田和彦(福岡教育大学講演記録)によるとサービス・ラーニング関係が過半数を超えるという。なぜ、サービス・ラーニングはここまで注目され、そして、実践が望まれているか、大学だけではなく、小中学校でも取り入れるところが少なからず出てきているのか、その根拠となる学問的基礎資料が緊要とされている。

本書は学校のカリキュラムと関わらせながら社会貢献を行う「サービス・ラーニング」に関する先進的な研究書である。

著者は研究における問題意識をフリーターやニートとも関連づけながら「現代の高校生は、概して自信を持ち得ておらず、自尊感情を獲得できていない。自尊感情が育っていなければ、学校生活や社会生活でも消極的かつ逃避的にならざるを得ない。そこに高校教育の根本的な課題が存在すると考えられる」(p.8 l.18−20)と明確に示している。サービス・ラーニングは少年期から青年期、特に大学生において多く行われている活動でもあるが、現役の高校教師でもあり、青年期である高校生時代の重要性を鑑み、対象を高校生に焦点化した研究である。

目次内容としては、

序章 現代高校教育改革におけるサービス・ラーニング研究の視座
 第1節 高校教育改革に有効なサービス・ラーニング
 第2節 本研究の概要
第1章 日本の高校における教育現象
 第1節 現代高校生事情
 第2節 高校生の発展課題とその克服
第2章 米国におけるサービス・ラーニングの理論と実践
 第1節 サービス・ラーニングの理論
 第2節 サービス・ラーニングが示唆する日本の高校教育改革への効果
 第3節 サービス・ラーニングの学習効果と日本への示唆
第3章 日本におけるサービス・ラーニングの展望
 第1節 学校教育における制度的枠組み
 第2節 先駆的事例にみる期待される学習効果 
第4章 サービス・ラーニングの普及とサポート・システム
 第1節 米国におけるサービス・ラーニングの課題と日本への示唆
 第2節 学社連携によるサービス・システムの課題
 第3節 サポート・システム構築への展望

以上の内容である。

第1章の日本の高校生に関わる部分では、高校生の現状や意識を探った上で、発達課題と生活・社会体験の欠損について明示している。高校生の発達課題である自立を阻害している要因を①人格の基礎を形成する家庭における生活体験の喪失、②メディア(テレビ・ファミコン・携帯電話・パソコン)の過度の利用による友人関係(集団で交わる機会)の喪失と友人関係の表層化、③大人社会との接触による社会規範の学習機会(社会体験)の喪失(地域社会が青少年の教育に関わらなくなったことが大きな原因)(p.6416−10)と示している。家庭における生活体験の喪失を人格の基礎形成の阻害要因ととらえた上で人間関係、社会接触の重要性を示唆しているといえよう。

第2章では、米国のサービスラーニングの普及の要因を「その建国以来の歴史的経過や宗教的背景、連邦政府や州政府の財政支援、NPO組織やネットワークの充実、さらには寄付の習慣など」文化的・政治的背景等の視点から検討している。その上で、米国の普及要因として「幼児・児童期からのサービス活動」(親と一緒)の体験が、その後の人生におけるサービス活動につながると示し、日本の子供の幼児期からのサービス活動の体験の一般化を求めている。

第3章では、日本の高校教育における制度的枠組みの構築、先駆的事例にみる学習効果の検証を通して、その導入の見通しが研究されている。「感心・意欲・態度」「思考・判断」「技能・表現」「知識・理解」の4つの観点から、高校生へのサービス・ラーニングが有意義であったと結論づけている。また、自尊感情に関する事前・事後アンケートや活動後の自由記述に基づいた自己評価から、サービス・ラーニングの学習効果を検証している。成果を科学的に示していくことは実践の拡充にとって不可欠であり、今後のこの研究結果の提示の仕方を工夫していくことが重要であり、本学会の使命の1つといえるであろう。

第4章では、サービス・ラーニングの普及や一般化のためのシステムに関し、地域社会のボランティアセンターなど既存のシステムを活用するだけではなく、「新しい公共」といわれるNPOの活動や、行政と市民の協働によるサポート・システムを駆使した活動の分析も行っている。具体的な事例の分析、モデル提示は現実化には有効であろう、ただし、社会起業家・コミュニティービジネス、公共サービスを行政が行う行政サービスと市民が行う市民サービスと区別するなど、現在進行しつつある公共サービス理論から、より精密化していくという試みも今後は求められよう。

本書は、米国におけるサービス・ラーニングの検証と日本での実証研究を通して、その導入の意義、理論と実践、基盤整備について究明したものである。また、サービス・ラーニングが、現代日本の教育改革における高校生の自己形成、例えば自尊感情の高揚や市民性(シチズンシップ)の育成など、21世紀を生き抜く力を涵養する学習効果を有することを実証しており、さらに、近年注目を集めている学社連携や自治体の青少年地域ボランティアの在り方にも示唆を与えることを意図してまとめられている。サービス・ラーニングに関するまとまった書籍が現在の日本には見あたらず、実践と普及のための不可欠の書である。サービス・ラーニングが子どもの心身のよりよい成長や発達に意味のあることの一端が示され、子どもの生活体験学習として、今後ますます重要視されてくるべきものであることは、この著によって全体をみれば、その一部ではあるが明確に検証されたといって良いだろう。

サービス・ラーニング研究は緒に就いたばかりであり、今後の著者のさらなる研究の継続、発展が期待されよう。

サービス・ラーニング研究―高校生の自己形成に資する教育プログラムの導入と基盤整備―

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山田 明 著

「西日本新聞」 2008年8月28日 21面

学習成果を地域に還元

 「サービス・ラーニング」という教育方式がある。学校で学んだ教科や知識を生かし、地域社会にボランティアで還元する。1980年代からアメリカで流行。日本では、宗像市の特定非営利活動法人(NPO法人)「サービス・ラーニング・フォーラム宗像」の山田明代表(47)=宗像市大谷=が中心となり、北九州市や宗像市の高校生と協力して研究を重ねている。

―「サービス・ラーニング」とはどのようなものですか。

学校で実際に学習したことを、ボランティア活動(サービス)を通して地域社会に還元します。活動を通して感じた知識の不足を、日常の学習で補い、生徒自信がさらに成長しようというものです。

―着目したきっかけは。

1993年に国際交流の一環でアメリカの高校を視察しました。当時はクリスマスで、現地の生徒が施設の子どもたちにさまざまなプレゼントを用意していました。例えば、文学専攻の生徒は物語を、工学専攻の生徒はおもちゃを作ってプレゼントしていました。自分たちが学んだ知識を生かしてボランティア活動する。学問が実際に生きるという体験をした生徒たちは、学習に対する意欲が強くなっていました。

―日本ではどのように活動しているのですか。

2004年にNPO法人を設立ました。同年夏には、宗像市出身の高校生23人と、地域住民の市に対する要望や意見を該当調査士、市に嘆願書を提出しました。また、八幡東区と若松区では、地元の高校生と『地域活性化新聞』を作り、住民に配布しました。現在は門司区の栄町銀天街についての新聞を作っています。

―「サービス・ラーニング」の精神はどのように生かされているのですか。

調査活動に必要な数学や表計算の力、新聞作製に必要な国語力や歴史の理解力など、今まで学んだことを存分に発揮してもらいます。加えて、市の行政担当職員や新聞記者ら専門家を招き、学生に専門知識を学ばせます。それだけに終わらせず、活動の反省を踏まえて学習し、今後も日常的に地域社会に貢献したいと考えます。

―「サービス・ラーニング」に関する本を出版したそうですが。

高校で教諭をする一方で、大学院で研究を進めてきました。その成果をまとめた本です。日本ではまだまだ浸透していない教育方式ですが、生徒の学習意欲向上と主体性の確立の処方せんになると確信しています。青少年の教育に携わる人に読んでもらいたいですね。

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橋本鉱市 著

『IDE現代の高等教育』 No.511(2009年6月号)
青木栄一 (国立教育政策研究所) 

政策が決定されたとおり実施されるのはまれである(プレスマン・ウィルダフスキー『実施』)。一方,政策決定の局面では関係者(アクター)の利害が鋭く対立し権力闘争が展開されることすらある。そこでは合理的判断に基づいた政策決定が行われるとは限らない。政策決定過程が注日されるのは政策の行く末を決めるのが決定段階にあると考えるからである(アリソン『決定の本質』)。

本書は占領期から1990年代を主たる対象として,政府,大学,専門職団体による医師養成政策の決定過程を明らかにしたものである。特に筆者は現代の高等教育政策を形成・決定するアクターは何かに関心を持つ(これはダールの『続治するのは誰か』と通底する問題関心である)。

序章と第1章は,理論的・抽象的記述が多いが,先行研究の乏しい領域で学的に誠実であろうとすれば致し方ないことである。社会科学(とくに政策科学)になじみの薄い読者は2章以降を通読した上で,結章と照らし合わせて読むとよい。評者は教育行政学を専門とするが,わが国の教育行政学が政策を所与のもの(ゲームのルール)として扱うのに対し(78頁),本書では政策を所与とせず,政策決定過程をルール形成ゲームと捉える点に,学ぶところが多かった。

第2章は,戦前を扱う章であるが理論的に重要な章である。というのも本書のように長期間の政策分析を行う場合,政策過程の初期条件がどのようなものであったのかを知ることが必要だからである。これは経路依存性を重視する歴史的制度論を彷彿とさせる。

第3章は,占領期の史資料を駆使しGHQ/SCAP/PHW,CIE,教育刷新委員会,文部省といった中央レベルの各アクターの動向が描かれる。占領初期には医専の統廃合を断行させるなど,占領軍の影響力が圧倒的であったが,占領後期に日本側の影響力も増大したことが明らかにされる。この時期は戦後の医師養成制度が形成され,主要なアクターが確定するとともにアクターの政策選好やアクター間の関係(レジーム)の原型ができあがる。

第4章は,厳格な医学部の定員抑制の時期を経て,医学部定員の拡大に踏み出す過程を扱う。日医と厚生省が医師数の抑制を志向していたものの,国民皆保険制度の完成(1961年)により医療ニーズが増大し始めたことで,医師養成数の拡大へと政策の方向が転換していく。これをうけ,文部省による医学部定員の引き上げという,行政組織レベル(省令レべル)で医師養成数が拡大された。それゆえ大きな政治対立も起こらなかった。

第5章は,大幅な医師養成数拡大の突破口となった秋田大学医学部の新設に関する事例分析であり,秋田県の全県一致の猛烈な陳情活動が実る過程が記述される。中央政府は新設に際して地方政府に財政面で依存する一方,地方政府は中央政府での予算編成過程で公式に医学部新設を認めてもらう必要がある。このように両者は相互依存関係にあり,一方的な依存関係ではない。新産業都市指定の政治過程分析を想起させる(村松岐夫『地方自治』)。

第6章は,1970年代における医師養成数の大拡充の政策過程をまとめている。この時期の特徴は自民党文教族の圧倒的存在感である。既存の国立大学に医学部を新設させるという行政的手法から,単科医科大学を新設するという政治的手法に転換する過程が描かれている。前者の手法では概算要求という制度上の制約を,各アクター(文教族も含む)は免れえないが,医大新設ならば,より政治的に政策を決定できるという知見は非常に興味深い。

第7章は,1980年代の医師養成数削減の政策決定過程である。特に国立大学医学部の定員削減である。拡大期と異なり,文教族が発揮したような政治力をもつアクターは存在せず,文部省が大学と相談しながら,概算要求というルーティン・ルートを用いて定員削減を実行した。しかも文部省の依頼は,容易に大学に受け入れられたわけではなく,質の充実というレトリックを用いてかろうじて定員削減が進んでいった。評者はかつて,公立学校施設整備事業を事例に分析を行ったことがあるが,1980年代に量的拡大から質の充実という,まったく同じレトリックが使われていたことに非常に興味を覚えた。

結章では,各時期についてアクターとレジームの観点から理論的にまとめられており,本書の問いに対する回答を提示する。特に政府,大学,専門職団体について縦(中央・地方),横(同レベルのアクター間)の関係を整除した箇所は,きわめて論理的である。

以下が評者の関心に基づいた各章のまとめである。本書の論述はきわめて精緻かつ理論的であるが,各章末には章括が設けられアクター,レジームの視点から知見がまとめられているため大変理解しやすい。また、戦前を含む6つの時期を時系列に比較することで,医師養成数というシングル・イシューの研究でありながら,知見の一般化に成功している。ただ,資料の制約もあり,各章で各アクターに関する情報の多寡が見受けられる。第5章でいえば秋田県政の情勢(議会勢力図,知事の政策選好等)を知りたかった。とはいえ,それは本書の学術的な価値を損なうものではなく,学界全体が引き受ける課題である。

本書の刊行により,教育社会学における高等教育論は公共政策論との接合を果たした。隣接科学の研究者としてそのことを喜ばしく思う。

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五島敦子 著

日本教育学会 『教育学研究』 第76巻第2号(2009年6月)
小池源吾 (広島大学)

教育の歴史とは、社会の変化や、時代の要請にみあう教育を絶え間なく創出しようとする努力と、そうして生み出された教育の機会をすこしでも多くの人々に分与しようとする2方向での努力の集積にほかならない。アメリカ大学史における19世紀後半から20世紀初頭にかけての時期は、それら2つの異なる方向での努力がめざましい進展をみせたことで知られる。そうした新しい大学像をいちはやく標榜し、その実現に努めたのがウィスコンシン大学であった。すなわち1904年学長に就任したC. R. ヴァンハイスは、新しい学部、学科の創設、大学院課程の設置、専門職養成のためのプロフェッショナルスクールの開設を推進する一方で、大学の門戸を広く市民に開放し、もてる知的、人的資源でもって学外社会に貢献するための取り組みに着手した。つまりウィスコンシン大学は、当時の著名な著述家にして編集者、L. ステファンズが言うところの「拡大(expansion)」と「拡張(extension)」の双方を同時に追求することによって、“一流大学”の仲間入りを果たしたのみならず、いわゆるアメリカ的な大学のプロトタイプともなりえた。

だが、大学拡張部が、ウィスコンシン大学の学内組織として1900年代から1910年代に成立をみる経緯をつまびらかにした研究は、以外にもけっして多くはない。その理由として、著者の五島は、大学拡張が成人教育領域でとり扱われてきたことを挙げる。しかも、連邦による成人教育政策という意味から農業拡張は積極的に取り上げられたものの、農業以外の拡張を意味する「一般大学拡張(General Extension)」は等閑に付されてきたと主張する。さらに、五島が言うには、ウィスコンシン大学が、ラフォレッテ州知事率いる革新主義政治と深く関わっていたという特有な事情も、大学拡張史研究の成立を阻んだ。大学拡張部の活動は、せいぜい政治改革運動の一場面、あるいは、州政治改革の方途としかみなされてこなかったからである。

しかし、大学拡張部は、もとより、大学自身の変化のなかで成立したものである。この事実こそは、大学拡張をあらためて高等教育史の文脈に位置づけなおし、その生成と展開過程を把捉しなおしてみることの必要性と可能性を明示しているように思われる。もっとも、従来の高等教育史研究のやり方を踏襲するかぎり、大学拡張は、教育と研究の伝統的な機能の後塵を拝することになる。著者が「サービス」という概念に着目したのは、そうした旧弊を克服せんがためであった。したがって、本書を貫く問題意識は、(1)どのような理念の変化にともなって、大学拡張部は生まれてきたのか、(2)大学拡張部をとおして提供されたサービスとはどのような特質を有するものであったか、(3)そうしたサービスは、大学自身にとってどのような意味を持っていたか、の3点に要約される。

全6章からなる構成を通覧すると、第1章で、1906年に大学拡張部が開設されるまでの前史を概観した後、大学拡張部の設立と運営をになった人物の考察が続く。すなわち第2章では、ウィスコンシン大学政治経済学部の教師で、州立法図書館長を兼務したC. マッカーシー、第3章で学長のヴァンハイス、第4章では、大学拡張部の運営にあたったW. H. ライティとL. E. レイバーを取り上げ、彼らのサービス理念について検討を試みている。次いで、考察は、大学拡張部が実施した事業へと移り、コミュニティ・インスティチュートに第5章を、そして視聴覚教育事業に第6章をあてている。大学拡張部の設立と運営を担った人びとの思想と、大学拡張部が実施した事業の2側面から研究課題に接近しようとした著者の目論見が窺い知れる。

ところで、ウィスコンシン大学拡張史に関する先行研究といえば、すぐにF. M. ローゼントレーター著『The Boundaries of Campas: A History of the University of Wisconsin Extension Division, 1885-1945』(1957)が思い浮かぶ。独特な文体と難解な用語に読者は辟易させられるものの、大学拡張史研究の白眉であることに異論を挟むものはいないだろう。彼は通史を扱ったのに対して、五島の場合、考察の時期を20世紀初頭10余年間に限定している。それだけに、渉猟した一次資料の質と量、それらの精緻な分析に、論述の平明さまで加味すると、この研究は、ローゼントレーターのそれに勝るとも劣らぬ高みに到達していると言ってよい。

だが、「解説文」ならいざ知らず、「書評」ともなれば、内容を紹介しただけでは、責任放棄の誹りはまぬがれないだろう。責務を全うしようとすれば、あらためて本書を大所高所から評価する任につかねばなるまい。そこで、“無い物ねだり”なども含めて、以下、若干の私見を開陳することにしよう。

まずは、「サービス」の概念をめぐるいくつかの問題提起から始めたい。

伝統的に、アメリカの大学、とりわけ国有地付与大学および州立大学は、本来は神への献身を含意した「サービス」というタームを用いて、社会との関係性を規定しようとした。だが、厳密に定義することもないまま、融通無碍にそのタームを使用してきたから、「サービス」の概念はじつは曖昧である。

本書では、その「サービス」という概念に着目して、大学拡張部の生成・展開過程を分析しようとするわけであるから、ひるがえって言うと、「サービス」の概念がどこまで明確になったかは、研究の成果を占う指標ともなるはずだ。

「サービス」の概念は、ヴァンハイスを扱った第3章で詳細に検討されている。それによると、学長就任当初、彼は、州改革のための顧問活動を「サービス」とみなしていたらしい。ところが、「サービス」の概念は再考され、「大学が関与しうるすべての活動を包摂する概念」(p.104)へと大きく拡大していくようすが描き出されている。しかし、「ヴァンハイスにとって、大学拡張とは、大学が社会の隅々まで光を照らす中心となって、あらゆる才能を開発する機会を提供することであり、それこそが、大学のサービス、すなわち大学の目的そのものであった」(p.105)と著者が論じたとき、「サービス」は明らかに大学拡張を含意しているわけだから、大学拡張はもとより、教育も研究もすべてを包含する、前述の「サービス」概念との間で齟齬をきたすことになる。しかも文中では、理念としての「サービス」と、その理念を具現するための事業としての「サービス」が厳格なルールを欠いたまま使用されているため、なおさら混乱を助長し、わかりにくくしているように思われる。

他方、大学拡張部の実践からサービスの内実を解明しようとする試みにしても問題がないわけではない。いみじくもレイバーが「文字通り大学を人びとの家庭にもたらす」のが大学拡張部の仕事と言い、料理や裁縫の講習まで含むと公言して憚らなかったように、大学拡張部は、多様な事業を実施している。学士の称号を取得できる成課教育の解放はもちろんのこと、機械工や、実業家、パン製造業者のための職業通信教育、市民団体を対象とするディベート、市民・ソーシャルセンター普及運動、福祉情報提供事業、大学教師による州議会への専門的な助言活動まで、フォーマルなものからインフォーマルなものまで多彩である。それだけに、なぜ、コミュニティ・インスティチュートと視聴覚教育事業のみを考察「の対象に据えたのであろうか。実践からサービスの内実を解明するという所期の目的に照らして、それが、どこまで妥当性を担保できるかを問題にしたいのである。

さらに、大学拡張部設立の経緯を解明するための方法論についてもすこしばかり注文をつけておきたい。

本書では、大学拡張部の開設と運営にかかわった主要な人物を中心に、彼らの思想を考察したところに研究方法上野特徴がみられた。同時代人を考察しようとするのであるから、論述において不要な重複や反復が懸念されたが、分析はいたって手際よい。そのことはひとまず評価したうえで言うのだが、大学拡張部の創設にかかわった複数人の思想を順次俎上にのぼせるやりかたは、整式や整数をひとまず因数に分解し、こんどはそれら因数の「和」を求めようとするのに似ている。分解された因数は、いくら加算してももとの整式や整数にはならない。掛け合わされてはじめて整式や整数となるのである。とすれば、マッカーシー、ヴァンハイス、ライティ、レーバーら4人のインターラクションにもっと注意を払う必要がありはしなかっただろうか。さらに言えば、シカゴ大学のW. R. ハーパー学長が、学内保守勢力の攻勢にあって、遠大な大学拡張構想の撤回を余儀なくされた事実や、イギリス大学拡張の紹介と普及に努め、初期大学拡張運動の守護聖人と目されながらも、H. B. アダムスは、自身が在職するジョンズホプキンズ大学では大学拡張に着手することすら叶わなかったという事実を想起してみるとよい。大学拡張部開設の経緯を動態的に把握するには、学内、学外の諸勢力との緊張関係や葛藤、あるいは軋轢を考慮に入れ、もっと子細に検討する必要があるように思われる。

アメリカ大学拡張史研究に携わるものとしての関心からすれば、1890年代の大学拡張運動との関わりにも目配せをして、その継承性と断絶性についてもうすこし踏み込んだ分析が欲しかったが、欲張りすぎであろうか。

ならば、最後にもうひとつだけ言わせてもらうと、革新主義政治遂行の道具とみなしてしまった先人たちと同じ轍を踏むことをおそれるあまり、著者が、革新主義を意識的に視界から排除してしまったのは、なんとも惜しまれる。革新主義を、ラフォレッテ政権下の政治改革と同義に解してしまうと、当然のことながら、その文化的社会的な意味合いは捨象されてしまう。その意味において、もっと広義に、この期のアメリカを席巻した時代思潮と理解したなら、ウィスコンシン大学拡張部成立の後景に、科学に寄せる期待や専門家の効用に覚醒した人びとの熱い思いや眼差しを配することができたかもしれないと考えるからである。

経営学者のP. F. ドラッカーは、非営利組織の自己評価手法を論じた著書のなかで、自分たちの使命は何か、顧客は誰か、顧客は何を価値あるものと考えているか、成果は何か、今後の計画はどうあるべきか、の5点を掲げ、それらについて自問自答することを、自己評価を行う際の要諦としている。20世紀の初頭、ウィスコンシン大学で大学拡張部の設立にかかわった人びとは、大学の使命に思いを致し、誰のために、何をすべきかという問題について自問自答し、熟慮を重ねたにちがいない。そのことを思うにつけ、いまや、業績主義の僕に成り下がり、目先の利益を追求するのに忙殺されているわが国の大学人が、大学の担うべき「第三の機能」に目覚める日が果たしてくるのだろうかと考え込んでしまうのである。

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五島敦子 著

日本社会教育学会 『日本社会教育学会紀要』 No.45(2009年6月)
香川正弘

21世紀は知識基盤社会であるということで、中教審答申「我が国の高等教育の将来像」において、大学の第3の機能として「社会貢献」、また社会貢献の主要な分野として大学拡張(extension)の必要性が強調された。これを受けて、我が国の大学は、従来から実施してきていた公開講座に加え、自治体との連携、産業界や地域団体との連携を強めてきた。欧米に比べ、大学と地域社会との関係についてあまり基礎研究の蓄積がないところに、大学開放、大学拡張、社会貢献、地域連携という新しい大学教育の分野が入ってきたため、「わかったつもりで」ともかく評価を気にして走っているという現状である。

大学の経営にこのような従来にない発想が求められている時代に示唆を与えてくれるのが、五島敦子著の『アメリカの大学開放―ウィスコンシン大学拡張部の生成と展開―』である。本学会でも良く知られているように、ウィスコンシン・アイディアは、大学の境界を州の境界にまで広げる社会貢献を主張した理念であるが、その生成と発展については、小池源吾等による個別論文はあるものの、1冊のまとまった単行本はなかった。本書は、著者が長年にわたって追及してきたアメリカ、特にウィスコンシン大学を中心にした大学拡張成立史(1860−1920年代)の研究成果(学位論文)であるので、学問の発展にとっても実際の大学経営においても、参考に値する著作であるといえる。

本書の概要を紹介しておく。序章では問題意識、先行研究の吟味、研究方法が叙述されている。研究目的は、広く知られているウィスコンシン・アイディアとはどういう理念か、またそのアイディアにある「サービス」という理念はどのようにして形成されたかを思想的、起源論的に明らかにし、その実践を通してアメリカ型大学拡張が成立していく過程を、大学側に視点をおいて解明していくことにあると設定されている。第1章は1862年の第一次モリル法から1890年代にかけてイギリス型大学拡張の導入と挫折、第2章ではマッカーシーによるウィスコンシン・アイディアの理念提示と新しい大学拡張の考察、第3章はヴァン・ハイス学長主導による大学拡張部の形成、第4章はライティとレイバーによる大学拡張実践にみるサービス観、第5章と第6章は州内成人教育の支援を取り上げている。本書の特色は、大学拡張をサービスという理念の形成と、その実践化という観点から絞って叙述していることにある。

著者と同じような問題意識をもってイギリスの大学拡張史を研究してきたので、本書を興味深く読ませていただいた。学ぶべきことも多々あったが、読みとりたいことは、アメリカ型大学拡張とはどういう概念か、それがどのようにして全米の大学で一般化していったのか、ということであった。読後感としてはコンパクトに整理されすぎていて、やや不満が残った。以下、要点を記しておく。

第1は、第一次資料の扱い方である。著者が対象とした1860−1920年代にかけての時期において、大学拡張の転換を記したのは、イギリス大学拡張の導入とそれからの離脱、ウィスコンシン大学拡張部の設置(1906年)、全米大学拡張協会の発足(1915年)であろう。組織にはたいてい保守派と革新派があり、両者が公論乙駁の論争を経て、新しい方向へと転換していくのが通常のことである。このことは、議事録、年報、業界誌を詳細に読めば実証していくことができる。著者は実際にアーカイブスを訪ねておられるので、提唱されたアイディアが組織の方針に採用していくところを原資料に基づいて論証して欲しかった。

第2は、用語に関してである。「サービス」という用語は貢献、奉仕、専門的な公益事業というように日本語では多様な意味を持つ。多様な意味を持つが故に原語の発音表記とするのであるが、そうすると意味を読者に類推させることになる。理念研究として行うのであれば、それぞれの場面で的確な訳語で表現するべきであるまいか。「講座」(a course of lectures)と「課程」(course)にも区分けが必要である。

第3は、大学のキャンパスを州の境界にまで広げるとか、社会人のニーズにすべて応えたわけではないであろう。もし応えるとしたら大学は崩壊していたに違いない。大学拡張の問題で大事なことは、社会人に対して大学教育をどのように担保するかということである。ライティとレイバーの見解の相違にそれを見ることができるが、どのような構成要素がそろえば、ウィスコンシン・アイディアの実態といえるのかはもっと明確にして欲しかったところである。

第4は、大学解放という題名のもとに大学拡張、大学開放、社会貢献というテクニカル・タームが使用されているが、それぞれの用語の意味と範囲が明確に区分されているのか理解しにくいところがあった。大学拡張は主として学内外へ出て行く大学教育を意味し、大学開放は学内へ社会人を呼び込んで行う教育対象の拡大を実体的には意味すると考えられる。これらの意味を含め、さらに大学教育に裏付けされていない地域社会との対応にまで事業を広げていくときに社会貢献という用語が出てくるのであると考えれば、一番広い概念が社会貢献となる。大学の機能論として「サービス」論の確立を問題とするならば、最後にこの種の指摘をして欲しいと思った。

本書は、このような問題を考えさせてくれた。冒頭で引いた中教審答申の文言を理解するためには、英米の大学拡張史についての知識が不可欠である。その意味で研究者にとっても、本書は生涯学習の関係者にも有益な示唆を与えてくれると思う。

戦後教育は変われるのか―「思考停止」からの脱却をめざして―

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貝塚茂樹 著

日本教育新聞社 『週刊教育資料』 第1034号(2008年7月14日号)
飯田 稔 (千葉経済短大名誉教授)

二〇〇六年十二月、教育基本法は全面改正された。改正反対派は、従来の論壇の主張。賛成派は、改正により教育問題のすべてが解消されるかのような主張。どちらの側の主張も、“世論”を引き付けることはできなかったようだ。従って“世論”は、この問題について“冷めて”いたと申せよう。

戦後の教育問題論議は、二項対立(戦前悪・戦後善、国家悪・教育運動善)の図式で進んできた。これに慣れてしまうと、思考停止状態に陥ってしまうことが困る。戦後教育史を考えたり学ぶとき、目を向けなければならない点だ。教育実践の場に間が悔いた評者は、それをいつも感じていた。

二項対立図式の状況を脱却し、実りある教育論議を深めるためにはどうするか。「『思考停止』からの脱却をめざして」と副題の付く本書は、それに真正面から迫ろうとする。

戦後教育の“思考停止状態は、深刻にして強固”であることは、本書が指摘するごとくである。その状態を、本書は、「戦後教育論」と「道徳教育論」「学校・教師論」の三つを切り口にして、分析と批判を深める。

「“開かれた学校”と、教師の意識改革で済むのか」「戦後教育の“語り”を超えて」などの著者の問題提起・指摘に、読者はいくつもの事柄を考えさせられる。戦後教育を、自らが考えなければならない今だから……。

著者(武蔵野大学教授)は、日本教育史・道徳教育の研究者として知られている。先年までは国立教育政策研究所主任研究員であった。

混迷する議論からの脱却に、読みたい一冊である。

戦後教育は変われるのか―「思考停止」からの脱却をめざして―

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貝塚茂樹 著

神社新報社 「神社新報」 2008年6月23日

思考停止の教育 遺産の検証問ふ

昭和二十二年に発布・施行された教育基本法は、平成十八年十二月、その全部が改正され公布・施行された。改正されたものの、本当に教育は正常化するのだらうか。この点への危機感が示されてゐるのが本書だ。

副題にあるのは「『思考停止』からの脱却をめざして」。著者の問題意識は、「戦後教育史は、『戦前=悪、戦後=善』、あるいは『国家=悪、教育運動=善』という二項対立図式が基調となってしまっている」がために、見解の相違は「右か左か」「敵か味方か」としか捉へられず、つひには「思考停止」に陥った、といふ現状認識にあり、本書の各所でその背景が説明されてゐる。

たとへば、教育再生会議が「徳育の教科化」を提言したことは記憶に新しいが、著者は「『評価が難しい』から『徳育の教科化』はできないという反対論は、『ためにする批判』であり、『思考停止』の態度が見え隠れする」と述べる。そして、短絡的に戦前の修身科に結びつけて否定する傾向と、修身科を過大に評価する傾向の両者ともに、「修身科に対する学問的な検証を欠いている」と指摘する。

そこで示されるのは、GHQが修身かを肯定的に評価してゐたのに対し、「自ら附した評価ながらも之に対しての自信は私にはどうしても持つことは出来ない」「実際修身教育の効果をあげるということは難事中の難事である」といふ広島高等師範学校訓導の言葉や、「今日の教育の大多数は、道徳教育の理論に就いて十分な確信を有して居ない。(中略)即ち道徳教育修身教授の原理方法に関して、十分確実な研究を積んで居ない」といふ東京高等師範学校教授の言である。

ここで著者が指摘するのは、五十年の蓄積を持つ修身科の「教育的遺産」が、二項対立図式の中で、その功罪が論じられてゐない点である。つまり、戦後教育がそれ以前の教育を直視しないために、日本のあるべき教育を論ずる土俵さへ形成されてゐないと見るのだ。

著者の貝塚茂樹氏は国立教育政策研究所主任研究官などを経て、現在は東京・武蔵野大学教授。日本教育史・道徳教育を専門とする。

本書は三部構成で、第一部「戦後教育論」では、教育基本法の「日の丸・君が代」をめぐる論争史、歴史教科書問題、戦後教育の転機などを、第二部「道徳教育」では、戦後道徳教育に関はった前田多門と天野貞祐の認識や、修身教育の検証の必要性を掲げる。そして第三部では学校・教師論を取り上げる。

この中で、第二部では「教育基本法と宗教教育」について触れ、宗教的情操が「今以上に形骸化と空洞化をもたらす危機性が大きくなる」といふ危惧も示してゐる。

戦後教育が置き去りにしてきたものとは何か、今後の宗教に関する教育を考える前提として、戦後教育以前の教育論が課題としたものは何だったのか。著者の手による『戦後教育の中の道徳・宗教〈増補版〉』ともあはせて一読することをお奨めしたい。

戦後教育は変われるのか―「思考停止」からの脱却をめざして―

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貝塚茂樹 著

「宗教新聞」 530号(2008年6月5日)

議論の土俵づくりから始めよ

著者は日本の戦後教育改革の歴史を専門とし、とりわけ道徳教育の展開について詳しい。近代に始まった日本の公教育において、最も難しいのが道徳だったといえる。修身のあった戦前では容易だったような印象があるが、著者の研究によると、担当教師はその難しさを率直に吐露している。戦後、道徳教育の必要性を唱えた天野貞祐元文相も、戦前では修身の厳しい批判者であったことは、その難しさを表していると言えよう。

戦後、修身科に代えて公民科の設置が日本側で構想されたが、占領軍民間情報教育局(CIE)の関与により、社会科へと変容した。この背景には、人格の完成を目標とする日本の教育と、よき社会人の育成を目指す米国の教育との違いがある。それが半ば強制されたため、日本は戦前の修身教育を清算する機会を失い、戦後のあるべき道徳教育の理念と内容があいまいになった、と著者は言う。

加えての不幸は、道徳が教育界のイデオロギー闘争のシンボルとされたことだ。昭和三十三年の「道徳の時間」設置に向け、文部省が開いた指導者講習会は、お茶の水女子大学での開催が、日教組の妨害により急遽(きゅうきょ)、会場を変更せざるを得なかった。そんな不毛な政治対立の長い時代を経て、今やっと道徳が冷静に議論できる時代になったという。

しかし、政治対立に代わって教育が直面しているのは、市場原理主義と教育の私事化だ。それは一九六〇年代以降の高度成長期から始まり、民間からの校長起用や学校に対する家庭の比較優位として現れてきた。そのため、今後の道徳教育は公教育の再生という課題と表裏一体で議論する必要がある、と著者は主張する。

心配なのは、政治対立で思考停止の状態を続けている間に、道徳教育法を習得しない学生が教師となり、ますます道徳教育の空洞化が進んでいることだ。同じことは宗教教育についても言える。著者が言うように、まずは理論的な議論の土俵づくりが必要だろう。

戦後教育は変われるのか―「思考停止」からの脱却をめざして―

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貝塚茂樹 著

時事通信出版社 『教員養成セミナー』 2008年6月号

本書は、現在の論争的なテーマである、教育基本法改正、国旗・国歌問題、道徳教育、学校の公共性などについて、教育史を専門とする著者による論考を「戦後教育」「道徳教育」「学校・教師」の観点からまとめた好著である。

教育論議は得てして「二項対立図式」で構成され、語る主体は「二項」のどちらかの陣営に自らを位置付け安住し、思考停止状態に陥る。これでは実りのある議論はできないという著者の思いが本書の通奏低音としてある。本書から教育問題を語る作法や、歴史から得られた成果と未解決の問題について学びたい。

戦後教育は変われるのか―「思考停止」からの脱却をめざして―

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貝塚茂樹 著

教育開発研究所 『教職研修』 2008年6月号
高橋寛人 (横浜市立大学) 

本書の著者、貝塚茂樹氏は、国立教育政策研究所主任研究官を経て現在武蔵野大学教授、主に道徳教育、宗教教育、戦後教育改革が専門で、『戦後教育改革と道徳教育問題』『戦後教育の中の道徳・宗教〈増補版〉』などの著書がある。

本書は「戦後教育論」「道徳教育論」「学校・教師論」の三部構成となっている。

第一部の「戦後教育論」では、これまで戦後教育について「戦前=悪、戦後=善」「国家(体制)=悪、教育運動(大衆)=善」という二項対立図式で説明されてきたが、そのような図式でとらえることは誤りであると、教育基本法、教科書、国旗・国歌などをとりあげて説明している。

第二部は、戦後道徳教育史を扱っている。占領初期、CIEが推進した社会科に道徳教育が含まれることになる中で、日本側が進めていた修身科の功罪の検証も戦後のあるべき道徳教育への検討も不十分なままとなった。天野貞祐文相の修身科「復活」発言と『国民実践要領』は、従来「逆コース」と批判されてきたが、そうではなく、占領初期に潜在化した課題が占領後期に顕在化したものであると論じている。この後、道徳教育は二項対立図式でとらえられ、その弊害はとくに深刻である。

戦後教育とくに道徳教育のあり方について、二項対立という政治的なとらえ方をこえて、教育(学)的に考えることが必要であるというのが本書の主張である。

このような見解について、評者は、戦後教育史を論じる上で二項対立図式は一定の有効性と必然性をもっていると考えるが、二項対立図式の弊害に関する本書の指摘に賛同するところは少なくない。

さて、現在の教育改革に対しては、まず第二部の終わりで批判している。学校選択制や民間人校長の登用など、教育の私事化が進んだ。それに伴い、教師は指導者ではなく「援助者」となり、教師の権威は失われてきた。これは道徳教育にとって大きな危機である。

なぜなら、道徳教育とは、「大人社会の価値基準に基づいて自己形成すること」が原則であり、そこでは「子どもにとっての外部(大人社会)の権威が何らかの意味で担保されなければ機能しない」からである。「一方で社会規範を教える役割を学校・教師に求め、一方で学校・教師の専門的権威を弱めることは明らかな矛盾である。」(一七三頁)。

現在の教育改革への批判は、第三部の「学校・教師論」でさらに展開される。

子どもをめぐる様々なことがらが、「個性重視」の名の下に個人の問題にされ、「心理主義化」によって心の問題にされている。不登校なども、「煎じ詰めれば個人の『こころ』の問題なのだというメッセージを、子ども達に伝えること」になり、「かえって子ども達を追い詰めてしまう」(二一七頁)。

過度の個人的心理主義へ傾倒してしまう要因のひとつは、道徳教育が貧困だからである。また、前述のように、教師の権威が失墜したから道徳教育ができないのであるが、他方、教師がしっかりと道徳教育を行えないから、教師の権威が失われたとも言えよう。

本書は、貝塚教授がこれまで教育雑誌等に掲載した論文や講演記録を一冊にまとめたものである。文章は読みやすく、著者の主張も明解である。戦後日本の教育とくに道徳教育の問題を考えるための入門書としておすすめしたい(入門段階を終えた方には、冒頭に紹介した貝塚教授の他の著書を推薦する)。

英学の時代 ―その点景

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高橋俊昭 著

『日本英学史学会報』 No.115(2008年5月1日)
高梨健吉 (慶應義塾大学名誉教授・日本英学史)

待望の書が刊行された。英学史学会などで発表したものを一本にまとめたものである。中村正直研究が中心で、幕末に始まる英学の時代を興味深く描く。幸いにも成蹊学園には中村正直文庫があり、著者はその貴重な蔵書を充分に活用できた。中村正直の英語学者の苦心をうかがうことができる。

第二部は著者の郷里秋田の英学を紹介する。明治12 年に、有名な宣教師カラザス(カロザース)は招かれて秋田師範で英語を教える。彼はさらに一般民衆の啓蒙運動や新聞によって民権運動を応援する。しかし三年の任期を終えて帰るとき、事件がおきる。寄宿先の娘の自殺である。自殺とされているが、謎めいている。悲恋の結果なのかどうか、ミステリーを読む思いがする。

第三部は七年制高校における英語科について解説がある。一典型として成蹊高校をとりあげている。当事者の解説は明快である。

第四部は米国人の見た幕末日本の素顔である。ニューヨークの雑誌に掲載されたものである。類書に見られない興味深い観察が手紙や日記の形式で伝えられる。ていねいな翻訳で、各章末の注釈も適切で親切である。

本書の講成は中村正直の英学を中核としてニューヨークッ子の江戸見物や秋田女物語などがまじって英学の時代を生彩あるものとしている。なお巻頭を飾る序文は、英文学界の老翁清水護氏によるもので簡潔に英学の時代をまとめてある。

教育の現在 ―子ども・教育・学校をみつめなおす―

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紺野 祐・走井洋一・小池孝範・清多英羽・奥井現理 著

「日本教育新聞」 2008年10月6日 20面

改革の動向踏まえ将来展望

本書は、教育課程に組み込まれている「教育原理」などの科目のテキストとして、大学や短期大学、専門学校などの授業で使われることを想定して書かれている。現在の教育課程を基に、教育と学校の過去を反照し、それらの将来について考えることが目的だ。

第5章「教育改革の動向と背景」では、自ら育っていく能力を持った子どもに対し、現在の学校教育がどのような役割や意義を持っているかを、教育改革の動向を振り返りながら検討している。「生きる力」や「確かな学力」などの概念を、平成10・11年の学習指導要領改訂の内容などを引用しながら説明。キャリア教育については、勤労観や職業観といった個人の心情面にまで踏み込んだ「キャリア」の定義などにも触れている。

第10章「子ども・教師・教育的関係」では、教育という営みについて検討。ここではデューイが「コペルニクス的転回」と呼んだ、教育の中心を子ども以外のところから子どもへと転換しようとする教育観にも触れ、現在は「うちからひきだす」教育観が全面に出ていることを説明している。

このほか、巻末には「教員のいま」を掲載。「指導力不足の教員」や「モンスターペアレント」などの説明があり、教員を目指す人たちには看過できない教員の生の現状も知ることができる。

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