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石井和平 著

日本社会学会 『社会学評論』 第59巻第4号(2009年3月)
正村俊之 (東北大学大学院文学研究科教授)  

20世紀後半における情報化の進展に伴って、わが国では社会情報学という新しい学問が誕生した。社会情報学は、自然科学・人文社会科学にまたがる学際科学であるが、情報社会としての現代社会を解明する点で社会学と重なっている。社会情報学の課題を社会学的視点から解明することを試みた本書は、社会情報学と社会学のちょうど境界領域に位置している。本書は2部構成になっており、第1部は「理論編」、第2部は「現状分析編」とでも言うべき内容になっている。

第1部では、社会学理論の歴史的展開を踏まえて、社会情報学の理論的な位置づけがなされている。社会学は19世紀に誕生して以来、「方法論的な個人主義対社会学主義」「ミクロ対マクロ」といった対立に悩まされてきたが、20世紀後半になって社会学のコミュニケーション論的転回が起こった(第1章)。社会情報学の理論はその延長線上において、社会学的な二項対立を止揚するための理論として構想される。その際、著者は、C. H. クーリーの「心の社会」に言及し、個人と社会の二元論的な見方にかわって、主体の内に構造が存在する「入れ子的な二重性」が理論の基礎に据えられなければならないという(第2章)。ついで、人間の心を理解するための手だてとして「機械の心」の問題が取りあげられ、コンピュータによって実現される「機械の心」がP. ブルデューやA. ギデンズらの「構造/主体」二元論の再帰的循環論からの脱却を可能にすることが示唆される(第3章)。

第2部では、情報技術、インターネット・コミュニティ、信頼など、情報に関わる諸問題が論じられる。まず、インターネットを構成する情報技術として「デジタル技術」と「ネットワーク技術」が区別され、両者が組み合わさることによってエージェント技術が成立することが述べられる。現代の情報社会の新しさは、「清報の表出」を超えて「行為の代理」を行うエージェント技術の出現にあるという(第4章)。

次に、インターネット・コミュニティをめぐる考察がなされる。物理層に位置するインターネットと社会層に位置するコミュニティは、電子掲示板や電子会議室システムなどのアプリケーションを介して結合しており、アプリケーション層を研究することの重要性が指摘される(第5章)。そして、インターネットに支援されたコミュニティの事例研究として、自律型ロボットAIBOの再生産過程で果たしたAIBOユーザーのインターネット・コミュニティの役割が分析される(第6章)。AIBOユーザーのインターネット・コミュニティは「地域に依存しないコミュニティ」であるが、インターネット・コミュニティのなかには「地域に依存するコミュニティ」も存在する。その一例として、情報産業集積地域であるシリコンバレーが取りあげられ、その競争力の強さの秘密が人々の信頼関係を重視する経済コミュニティにあることが示される(第7章)。

最後に、信頼と情報の関係が原理的なレベルで検討される。山岸俊男、A. ギデンズ、N. ルーマンの信頼論や、R. パトナムのソーシャル・キャピタル論を援用しながら、信頼関係が社会的不確実性の高い状況のなかで「顔の見える関係」として形成されることが指摘される。そこから、社会的な不確実性を高める情報化は一次的な関係を喪失させるどころか、逆に一次的な関係の必要性を高めるという結論が導かれる(第8章)。

情報化に関しては、ミクロな視点に立った社会心理学的研究が多いが、そうしたなかで本書は、情報化の諸問題を社会学理論に引きつけ社会学的土俵のなかで考察した数少ない書物の一冊である。そのことが本書に内容的な重厚さと斬新さを与えている。特に、従来の社会学的な二項対立に代わる論理として「入れ子的な二重性」を提起されたことの意義は大きい。「心のなかの社会」という入れ子的な論理は、クーリーやミードの自我論に見られるが、評者の判断が正しければ、その論理の先駆はライプニッツのモナドロジーにある。ライプニッツは二進法計算機の原理の考案者であっただけでなく、世界を情報的視点から捉えた先駆者でもあった。ミードはライプニッツの影響を受けていたにもかかわらず、「入れ子的な二重性」を「近代的な二項対立の論理」に組み替えてしまった。われわれに与えられた課題は、ミードとは逆に、「入れ子的な二重性」を改めて情報的論理として取り出し、それを基底に据えた社会認識を行うことであるように思われる。本書で惜しまれるのは、第1部の内容が第2部で活かされていない点にあるが、それは今後に期待したい。

英訳聖書の語学・文学・文化的研究

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清水 護 著

キリスト教文書センター 『本のひろば』
第601号(2008年3月25日)

倉松 功 (神学者)

キリスト教書「私が選んだ3冊」

英文学の硯学による重厚な本書では、英訳聖書、聖書とシェイクスピア、ワイルド、トインビー、ロレンスなどをめぐって深く、広く、真摯な研究の成果がまとめられており、キリスト者として知らなければならないことなどについても新しく教えられました。1908年生まれの清水先生の、本年100歳のご長寿を心からお喜びし、昨秋の本書の刊行をお祝いしたいと思います。 

英訳聖書の語学・文学・文化的研究

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清水 護 著

『キリスト新聞』 2007年12月25日 第4面
山形和美(日本キリスト教文学会会長・聖学院大学大学院教授)

文学 清水護氏白寿記念の大著

キリスト教文学界の今年度の活動としては、やはり日本キリスト教文学会の活動を挙げなければならないだろう。会員数は11月13日現在で305名である。関東地区に本部があり、聖学院大学に事務局が置かれている。支部は北海道、東北、名古屋、中部、中国、九州のそれぞれにあり、各支部長がいる。毎年全国大会があり、今年度は活水女子大学で行われた。また、機関誌「キリスト教文学研究」が毎年発行されている。

もう1つ、特記しなければならないことがある。それは貴重な著書が出版されたことである。著者は日本キリスト教文学会の古くからの会員で、元国際基督教大学教授・清水護先生。表題は『英訳聖書の語学・文学・文化的研究』(学術出版会発行)で、480頁に及ぶ大著である。先生は白寿(99歳)を自ら記念して出版なさった。清水先生は、東京大学の学生の頃より英訳聖書の研究に励んでこられ、本書には1921年(昭和6年)の英文稿から始まり、最近の書き下ろしの文章まで入っている。内容は言うまでもなく素晴らしいものだが、本書を戴いてすぐにお電話したとき99歳でご健勝であられるのを知って、私は文字通りショックを感じ、驚きを隠せなかった。そして我が身を省みた。

これだけ書けば、わが国のキリスト教文学界の今年度の活動の報告としては、十分であろう。

その他、キリスト教関係のテーマを扱った著書を挙げれば、野口肇の『日本におけるフラナリー・オコナー文献書誌』(文化書房博文社・2007年1月)、谷悦子『阪田寛夫の世界』(和泉書院・2007年3月)、尾西康充『椎名麟三と〈解離〉―戦後文学における実存主義』(朝文社・2007年6月)などがある。

なお、講演として、山形和美「キリスト教と文学―『ヨブ記』と『リア王』」(聖学院大学総合研究所主催・11月7日)が行われた。

近代日本教育会史研究

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梶山雅史 編著

日本教育学会
『教育学研究』 第75巻第4号(2008年12月)
米山光儀 (慶應義塾大学)

本書は、「あとがきに代えて」にあるように、2002年度から2008年度まで、日本学術振興会科学研究費補助金交付を受けてなされた研究の成果の一部である。その研究テーマは、「近代日本における教育情報回路形成の歴史的研究(1)―情報回路としての地方教育会―」、「近代日本における教育情報回路としての中央・地方教育会の総合的研究」であり、「教育情報回路」という語がひとつのキーワードとなっていることがわかる。

編著者の梶山雅史は、岐阜県を主なフィールドとして教育会研究を精力的に行ってきた。その梶山が中心となって2004年7月に東北大学大学院教育学研究科で共同研究「教育会の総合的研究会」を立ち上げ、梶山の東北大学定年退職を機に、それまでの研究成果をまとめたのが本書である。その意味では、梶山の定年退職を契機として生まれた記念論文集という意味合いも全くないわけではないであろうが、しかし、一般のそれとは異なり、編著者の教育会研究の問題意識が共有され、教育会史研究の魅力が感じられる論文集となっている。

教育会は、信濃教育会などいくつかを除いて、戦後に解散し、現在、その存在が注目されることはほとんどない。しかし、戦前には全国、都道府県、郡、市町村などを単位として数多く存在し、しかも校長や教員だけでなく、教育行政関係者や地方の有力者なども会員となるなど、戦後にはないタイプの教育団体で、中央の教育政策にも、地域の教育にも少なからざる影響力を有していた。「『教育会』とは何かを明確に限定し用語の規定をすることは、今もって容易なことではない。」〔梶山雅史・竹田進吾編「教育会文献目録 1」、『研究年報』(東北大学大学院教育学研究科)第53集第2号、p.302〕と編著者も別なところで書いているように、教育会はその組織も、またその果たした役割も多様であり、これまでに教育会史研究は断片的になされてきたとはいえ、その研究の重要性が十分に認識されてきたとはいえなかった。そこで、本書は、編著者による「教育会史研究へのいざない」を序章として置き、学制期における発足から戦後の終罵までの教育会の歴史を概観し、教育会史研究の重要性が述べられる。そこには、「教育会は恒常的な運動体として教育情報を収集・循環させ、戦前の教員・教育関係者の価値観と行動様式を方向づけ、さらに地域住民の教育意識形式に大きな作用を及ぼした」(p.28)と、教育会を「近代日本の歴史においては、空間・時間両軸において実に巨大な教育情報回路」(同前)と位置づけ、「教育会の登場から解散に至る全プロセスを射程に入れて、この教育情報回路としての教育会が各時代に何をもたらしたか。いかなる変化が生じたか。この情報回路のメカニズムならびに回路を流れた情報内容についてトー夕ルにその歴史的意味の解明にとりくまねばならない」(pp.28-29) と課題が示され、先行研究に拠りながら、教育会史研究の視点が示される。

それに続き、第1章から第12章まで、13人の執筆者(第8章のみ二人の執筆)による個別の教育会についての論考が並ぶ。第1章から第9章までは、時系列に配列され、自由民権期から昭和の戦時期までの各地の教育会について、様々な視点から論じられる。対象地域は、岩手、宮城、福島、群馬、千葉、広島の各県で、県や郡単位の教育会だけでなく、村単位の教育会までとりあげられ、テーマも行政と教育会の関係など教育行政史に関わるもの、教員養成・研修など教員史に関わるもの、社会教育史に関わるものなど、多岐にわたっている。第10章、11章は、文部省からなされた諮問を中心とした中央の教育会に関する研究、第12章は台湾教育会についての研究である。

このように、本書には様々な時代、様々な教育会を対象にした多様な研究が収録されており、教育会史研究の拡がりと可能性を実感させられる。「あとがきに代えて」にある「教育会の総合的研究会」の活動記録を見ると、研究会では発表されてはいても、本書に収録されていない興味深い研究が数多くあり、実際には教育会史研究はさらに拡がりをもってなされていることがわかる。しかし、教育会を教育情報回路として考える場合、国内や旧植民地地域にとどまることなく、教育会を媒介とした国際交流も視野に入れ、国際的な教育情報回路として教育会を検討することも必要であろう。

教育会は、教育行政史、教員史、社会教育史などの分野を問わず、近代日本教育史研究に広く関わっており、本書によって教育会史研究の魅力とその重要性は十分に伝わってくる。研究会で発表されながら、本書未収録の研究は、「第2次論文集に収めたい」(p.410)とされており、第2次論文集の刊行が期待される。

和田典子著作選集

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和田典子著作選集編集委員会 編


日本教育史研究会 『日本教育史往来』
No.171(2007年12月31日)
宇津野花陽 (お茶の水女子大学大学院)

和田典子氏は1915年生まれ、高等女学校卒業後東京女子高等師範学校家事科で学び、1938年から1944年まで高等女学校の教諭、戦後は1947年から1950年まで東京女子高等師範学校研究科で学んだ後、1950年から1979年まで東京都立戸山高等学校で家庭科の教員をしていた。2005年9月30日に亡くなった(享年89歳)。和田氏の著作物、授業の記録、所属してきた会の記録、蔵書などの資料は和田典子著作選集編集委員会において保存のための整理をすすめている。本書は、そのうち著作物についてまとめたものである。私も委員の一人として著作目録の作成に関わらせていただいた。

本書は大きく3部構成になっている。第1部は「座談会 和田典子の人とその仕事」、第2部は「和田典子著作論文」、そして最後に和田典子氏の著作目録と略歴が収録されている。第1部では和田氏と教育や研究、運動を通じて関った人たちの座談会の記録が収められており、それぞれの著作の背景が分かるようになっている。第2部の、「Ⅰ 1960〜1970年代」、「Ⅱ 1970〜1980年代」では戸山高校在職時に日教組の教育課程研究委員会、和田氏が設立した家庭科教育研究者連盟や家庭科の男女共修をすすめる会のなかでつくってきた家庭科教育論について、「Ⅲ 1980〜2000年代」では、戸山高校退職後に大学の講師をしながら男女平等をすすめる教育全国ネットワークや国際婦人年日本大会の決議をすすめるための連絡会での活動にたずさわるなかでまとめた、ジェンダーの視点からの家庭教育や学校教育、教科書についての著作が収められている。「Ⅳ 戦後史における男女(ジェンダー)平等教育」では、女子教育、家庭における女性の生活に関する和田氏の個人史が収められている。したがって本書は、女子教育史、中等教育史、家庭科教育史、女性教員史、社会教育史、教育運動史、女性運動史、家庭教育など様々な視点から読むことができるだろう。例えば、私の研究関心であり本書のテーマの一つでもある戦後の高等学校の家庭科教育という視点からは次のようなことが読み取れる。

戦後、中等教育が一元化され、新制高等学校は高等普通教育と専門教育とを併せほどこす完成教育を行うものとして再編されることになり、のちに「高校三原則」と呼ばれる小学区制、男女共学制、総合制などがすすめられることになったが、男女共学制について、東京都では「段階的移行策」がとられ、「男女異数制」をとることになった(282-283頁)。和田氏が戦後に勤務した高校は旧制中学から新制高校(普通課程)になったところで、1950年から定員400名中女子100名を入学させることとなり、女生徒に対応するために和田氏が唯一の女性教員として採用された。家庭科は就任の2年目から「ぶらさがり」の選択授業として特設され、数年後に他教科並みの扱いになったものの芸能科との選択という状況がしばらく続いた(363頁)。当時の女生徒たちの志望理由には「自宅が近いから」、「男子に伍して学カを高めよう」というものに大別できた(284頁)という。男女異数制をとった都道府県では特に、新制高校発足当初から既に旧制中学を母体とした高校と旧制高等女学校などいわゆる女子系の学校を母体にした高校とで教員の配置やカリキュラム、卒業生の進路等に大きな差があったものと思われる。また、和田氏は戦後の普通課程における家庭科の創造にカを注いだが、戦前には高等女学校と東京女高師で学び、成田順や石田はる等に学んだノートやレポートなどが残っている。1995年の第4回世界女性会議NGOワークショップで浴衣の製作とファツションショーを行っている(32-34頁)など、裁縫の技術は高かった。戦前に養成された、被服領域に専門特化した教員が戦後も1960年代1970年代頃まで教員を続けていたものと思われるが、そのような教員たちの配置のされ方が、家庭科の専門教育と普通教育との関係に影響を与えたものと思われる。

ぜひ様々な分野の研究者の方に読んでいただけたら幸いである。

和田典子著作選集

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和田典子著作選集編集委員会 編

民主教育研究所 『人間と教育』 No.56(2007年12月)
鶴田敦子 (大学教員)

 

男女共修家庭科・男女平等教育の理論から学校教育の再考に迫る

和田典子氏は男女平等教育の実現に生涯をかけてたたかった実践者・研究者である。和田氏は戦後35歳にて、男女共学になった都立戸山高校に始めての女性教員として勤務し、日教組の運動にかかわるなかで、民問教育団体「家庭科教育研究者連盟」の創立の中心的メンバーとなり、後に、様々な大学で教鞭をとられ、男女共修の家庭科、男女平等教育に最も大きな影響力を与えた第一人者である。本書は、2005年11月、89歳にて逝去されたのを期に、和田氏にゆかりがあった者達があつまり、和田典子著作選集編集委員会(井上恵美子、斎藤弘子、鶴田敦子、永井好子、朴木佳緒留、丸岡玲子、吉村姶子、米田俊彦)を立ち上げ、約500点余の著作の中から約1年半の編集作業を経て25の珠玉の論文集として刊行されたものである。

第1部の座談会は、戸山高校勤務時代の同僚の武藤徹氏、家庭科教育研究者連盟の斎藤弘子氏、家庭科の男女共修をすすめる会の元世話人半田たつ子氏、男女平等をすすめる教育全国ネットワーク吉村姶子氏、国際婦人年連絡会丸岡玲子氏が、『性役割をのりこえて―和田典子先生のあゆみと家庭科の歴史」(1995)を著された朴木佳緒留氏(神戸大学)の司会で和田氏の人とその仕事について語っている。この座談会からは、戦後の男女平等教育の歴史及びそれを担ってきた女性達のたたかいの歴史を読みとることができる。

また、1974〜1976年に行われた日教組の中央教育課程検討委員会に集まった教育学研究者達が、家庭科には教科理論がないという理由で和田氏の主張を受け付けなかったことに対して号泣されたのは、女性解放について日教組が応えていないという悔し涙であったというエピソードなど、和田氏のたたかいと人となりを浮かびあがらせている。

第2部の著作論文は、時代毎に区切って収録されている。

1 1960〜1970年代

この年代は和田氏が家庭科の教科理論を模索した時代である。学習指導要領や家族政策の批判的検討から教科論に着手した論文と、家永教科書訴訟での原告証人側の証言記録が収録されている。

2 1970〜1980年代

男女共学の家庭科教育の理念を全面的に展開した論文である。また、家庭科教育不要論に対する反論および文部行政に対する批判の論文等を掲載している。

和田は、家庭科は、憲法に定める第24条第25条規定を実質的に保障することをめざして、

a 家庭の営みとしくみの事実をただしくとらえ
b 生命と生活を守り発展させるために、科学や技術をどう生かしてきたかを学びとることを通して、
c 家庭生活の矛盾を認識し
d これを打開する道すじを展望し、実践しうるカを育てるものでなければならない

しかし、「生命と生活の再生産」は一方では、生活手段すなわち衣食住などの生活資料の生産とそれに必要な道具の生産とかかわり、他方では人間それ自身の生産すなわち種の繁殖とかかわるというように広範な内容を含んでいるから、家庭の営みとそのしくみも、この広範な内容との関連でとらえなければならないと記している。

3 1980〜2000年代

家庭科教育以外の、学校教育や家庭教育、他教科の教科書のジェンダー視点での分析、男女平等教育や女性運動に関するものなど、ジェンダー・イコーリティに関する幅広い論文を収録している。

4 戦後史におけるジェンダーの平等教育

戦前・戦後の歴史を男女平等とその教育という視点から分析し、さらにそれを和田の個人史と重ねた論文を収録している。

後末の500点余の著作目録は、朴木が作成した資料をもとに、艮香織、宇津野花陽、小高さほみの若手研究者が作成している。

以上の論文は、そのまま戦後の日本の男女平等教育の歴史であると言える。本書に収められている論文は、現在にもそのまま通用する、鋭い問題提起を含むものばかリである。それは、家庭科の教科理論のみだけでなく、学校論および学校カリキュラム論をジェンダーという視点からの再考を迫るものだからであろう。これまで家庭科教育や男女平等教育に触れてこなかった全ての教育関係者の教育論の転換を迫るものと思われる。一読の価値ある著作集である。

和田典子著作選集

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和田典子著作選集編集委員会 編

「新婦人しんぶん」 第2720号(2007年11月1日)
鶴田敦子 (聖心女子大学文学部教授)

 

家庭科教育は“生きるための土台” 憲法24条、25条の視点つらぬいて
出版された『和田典子著作選集』

男女平等教育に生涯を捧げた家庭科教育研究者連盟(以下家教連)元会長の和田典子さんが亡くなって2年。その500点をこえる著作から25点を選んだ『和田典子著作選集』(学術出版会 和田典子著作選集編集委員会)が出版されました。編集委員の1人、聖心女子大学文学部教授の鶴田敦子さんに、その業績と引き継ぐ家庭科教育の課題を聞きました。


『選集』の作業はおよそ2年かけて、朴木佳緒留さん(神戸大学大学院教授)や丸岡玲子さん(国際帰人年連絡会常任委員)はじめ8人の編集委員や3人の業績目録作成委員が分担しておこないました。業績目録は、朴木さんが1993年代までまとめられたものがべースになっています。
 

第1部は「和田典子の人とその仕事」をテーマにした座談会を収録、第2部は1960年〜2000年代を3期に分け、さらに「戦後史における男女(ジェンダー)平等教育」として、和田さん自身の個人史をジェンダーの視点でとらえた著作を収録。これは個人史にとどまらない興味深い内容です。

現場の実践を組み立てて、和田さんが理論化し、それをまた実践で生かしひろげる。そういう意味で、和田さんは、家庭科の実践者であり研究者、運動家として、その3つを見事に融合させ体現してきた人です。この『選集』は、女性たちの運動にも大きなヒントになることがたくさんあると思います。
 

和田さんは「家庭科が教育の対象になりうるのか」という議論に対し、いつも、「現実に家庭生活があって、子どもたちがそこに暮らし、たくさんの矛盾を抱えている。その現実を否定することはできない」と、憲法25条の「健康で文化的な最低限度の生活」、24条の「個人の尊厳と男女の本質的平等に基づく婚姻の成立と維持、相互協力」の視点から理論を組み立てています。「とにかく子どもの現実から出発し、子どもの要求から出発する、それが家庭科だ」と、いつも言っておられました。

さらに和田さんは、家庭科の本質、目標について、それら憲法の規定をタテマエに終わらせず、実質的に保障することをめざして、生命と生活の再生産にかかわる家庭の営みとそのしくみを家庭科教育の、独自の対象としておさえ、

「a 、家庭の営みとしくみの事実を正しくとらえ、b 、生命と生活を守り発展せるために、科学や技術どう生かしてきたかを学びとることを通して、c 、家庭生活の矛盾を認識し、d 、これを打開する道すじを展望し、実践しうるカを育てるものでなければならない」(『選集』より)と家教連の先生方とともに、家庭科の理論をうち立てました。

この、家庭の営みとしくみを正しくとらえ、科学や技術を生かし、矛盾があれば打開の方向を探り、実践する、これこそが、いま教育学における世界的潮流にもたっている「市民教育」(社会に発言する市民を育てる)に通じることだと思います。
 

「女子のみ必修」(別項)だった家庭科は女子を家庭生活に押し込めるための教科でしたから、学習の発展がない、という議論もありました。でも、和田さんがイメージしていた家庭科は、先述のa〜d の視点で、本当は、どう生きるか、生きる力をどう身につけるか、というおもしろい教科なんです。いまの学校教育は自分の生き方にかかわって学ぶ教科は多くないし、生きるための土台の力リキュラムが位置づいていないと思います。

著作のなかで和田さんは、「家庭科不要論を克服する理論と実践」「なぜ、文部省は家庭科女子必修に固執するか」など、いまに引き継ぐ問題も多く書きのこしています。本書は、今でも、家庭科や男女平等教育や女性運動の理論的支柱になりうる論文ばかりが収められています。世界の家庭科を見ても、「教科論」として理論構築しているところは少ないし、日本の家庭科理論の底流に、和田さんをはじめとする家教連の理論や運動の影響は大きかったと思います。

しかし、男女共修になったものの、今、家庭科の総時間数は減らされ、中学校では1〜2年生で1時聞ずつ、3年生は0.5時間。高校は4単位と2単位がありますが、受験科目重視のなか、2単位の高校が約60%といわれます。学校教育のなかに男女平等を実現させるとりくみとしての家庭科への、「新しい歴史教科書をつくる会」などのジェンダーバッシングも引き続き根強いものがあります。

課題も多いですが、家庭科教育の充実は日本の学校教育を変えることでもあります。それは社会を変えることにつながっていくと思います。
 

【家庭科教育のあゆみ】
戦前の、女子だけが学んだ「家事」「裁縫」と決別して、戦後生まれた教科である家庭科は、当初、男女に開かれていた教科だったが、1960年代ころに中・高等学校では女子だけが学ぶ教科になり、それは約40年続いた。「なぜ女だけが家庭科を?」などの世論を背景に「家庭科の男女共修をすすめる会」(1974年設立)などの運動や、国連「女子差別撤廃条約」の批准(日本政府)も力になって、1989年の学習指導要領で男女共修に。実施は、中学校1993年、高校1994年。男女が学ぶ家庭科の実践に、和田さんはじめ家教連の理論や実践は影響を与えている。
 

【和田典子さん語録 本書より】

  • 自覚的な性役割とのたたかいがなければ、教育としての家庭科男女共修が成功したとはいえない
  • 男女別コースは、学校教育における男女差別の温床として日本の民主化をおくらせ、婦人労働の進歩を阻むことにならないか
  • 家庭科は自然科学や社会科学の法則を生活現象のなかでたしかめることによって、国民生活における人間疎外の実態をつかみ、その解放のためにたたかう力を育てるものでなければならない

和田典子著作選集

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和田典子著作選集編集委員会 編

国土社 『月刊社会教育』 2007年10月
井上恵美子 (フェリス女学院大学)

 

戦後一貫して先頭に立って家庭科教育の運動と理論を切り拓いてきた和田典子氏(以下、「和田さん」と称させて頂く)が2005年9月30日に亡くなった(享年89歳)。本書は、その時々の情勢との緊張関係のなかで、亡くなる間際まで記した500数点に上る和田さんの著作の内から、代表的なものを選び収録したものである。

まだ院生であった私は、高校家庭科男女共学必修実現前夜にあたる1984〜85年に、ある出版社の編集会議でほぼ2カ月に1回、和田さんとご一緒する機会があった。温かいお人柄とともに、文部省の「家庭科教育に関する検討会議」報告(84年12月)をいかに評価するかお話されている時の厳しさに触れた。日本における家庭科教育とジェンダー問題の動向に全力を挙げて責任を持って前進させようという気迫に満ちていた。当時のことが本書を読むと一挙によみがえる。今回、編集委員に名前を連ねさせて頂いた関係もあって、本書を紹介させていただく。

本書は3部から成っている。

第1部は「座談会 和田典子の人とその仕事」であり、ゆかりのある人たちの座談会によって、和田さんのそれぞれの著作が編み出された文脈と背景がわかり、臨場感に満ちた本書の解題の役割を果たしている。

第2部「和田典子著作論文」には、まず「Ⅰ 1960〜1970年代」と「Ⅱ 1970〜1980年代」において家庭科教育論が、「Ⅲ 1980〜2000年代」では家庭教育、ジェンダー視点からの学校教育や女性運動についての論文が、「Ⅳ 戦後史における男女(ジェンダー)平等教育」には和田さんの自分史であると同時に家庭科教育、女性運動をめぐる史的証言でもある論考が、収録されている。

第3部には、和田さんの著作目録と略歴が掲載されている。

本書を通覧すると、さまざまなことを読み取ることができる。

和田さんが家庭科教育運動の第一人者であったことは周知のことである。しかし、そのプロセスは単純ではなかった。戦前の良妻賢母主義教育の中核に位置していた家庭科(「裁縫科」「家事科」「手芸科])から脱し、新たな家庭科の構築のために、志を同じくする家庭科教員たちと、教員組合を中心としての活動(教育研究全国集会、「家庭科研究会」「教育課程研究委員会」など)や、研究会「家庭科教育研究者連盟」を作っての取り組みをしていた時代から、家庭科男女共修の実現を真正面に掲げて、市民との共闘・国際的な視野も得て「家庭科の男女共修をすすめる会」(1974年〜)・「国際婦人年日本大会の決議を実現するための連絡会」(「国際婦人年連絡会」、1975年〜)を通して大運動を展開した段階へと発展させたプロセスがよく理解できる。

第2に、家庭科の確立・理論化をすすめるために、和田さんが教研集会などでの「『教育実践の分析・考察』から教科理論を組み立てるという独自の研究方法」を採っていた点が興味深い。既成の理論には満足できず、とはいえ教育学者たちからは「家庭科には教科理論がない」「家庭科は教科としてはないほうがいい」と指摘されるだけで頼りにできないために、「私たちでやるほかない」と決意したという。家庭科の独自性として「現実の生活事象」から出発することをしっかり位置づけた上で、さまざまな教育実践から理論を構築させるその方法は、住民の生活現実に依拠しながら実践から理論を積み上げていく社会教育学の方法に通じるものがあると思われる。一つの教科の発展過程を社会教育の視点で分析することができるのではないかと思われる。

第3に、学校や女教員の歴史に関する証言としても興味深い。ある東京都立の旧制中学校が新制高等学校となって女生徒をはじめて受け入れる際(1950年)に唯一の女教員として和田さんが赴任したこと、裏返せば400人中100人の女生徒の担当としては女教員一人で問に合うと当時思われていたこと、戦後の高校家庭科は新学制開始と同時に始まったのではなく和田さんの高校では1951年から開始され、その男女に開かれた選択科目としての家庭科は他の授業の終了後の「ぶらさがり」の授業として特設されたこと、さらに和田さんが新制高校の「H・R担任のポスト」を得るのに就任から15年も要したことなど、さまざまな興味深い事実がわかり、和田さんが一人の女教員として努力してきた一面を垣間見ることができる。

中・高における家庭科の男女共修が実現したことを「性的役割分担教育にくさびを打ち込んだ」と評価した和田さんは、「日本の男女差別状況を打開する要となり、男女平等をすすめる教育運動のセンターを願って」、1997年に「男女平等教育全国ネット」を立ち上げる。この会は現在も活発な活動をしており、社会教育関係者も多く加入している。和田さんは、家庭科をより良くしたいということだけに努カしていたのではなく、性別役割分業意識問題の中核にある家庭科を改革し、その延長線上にジェンダー問題の解決を見通していたことがよくわかる。それは、和田さんが自分の半生を振り返って「性別役割分業意識・体制との絶え間ない闘いの連続でした」と記していることからも理解できる。

和田さんの体調がすでに悪くなったころに「新しい歴史教科書をつくる会」の中学校教科書問題が浮上し、ところがそれに反対するある団体の声明にジェンダー問題への言及が皆無であったために、和田さんは徹夜で「つくる会」批判のアピールを作成し、「ネット」の総会で訴えた。そしてこの総会の場で例れ、救急車で運ばれたという。まさに最期まで、ジェンダー問題解決に努力された。教育基本法に続き、社会教育法や憲法改悪も俎上にある今、和田さんの遺志を私たちがいかに引き継ぐか問われている。

日本銀行総裁 結城豊太郎 ―書簡にみるその半生―

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八木慶和 著 齋藤壽彦 監修 

日銀旧友会 『日の友』 397号(2008年7月20日)
鈴木恒一

八木慶和氏 渾身の労作

長年、『日本金融史資料』や『日本銀行百年史』の編纂作業で活躍された八木慶和さんが、昨年、学術出版会から表記の著作を出版された。ページ数にして462ページに及ぶ、第十五代総裁結城豊太郎の本格的評伝である。八木さんが本書を完成させるまでの事情については、本書の「はしがき」に詳しいが、一言でいえば、かつての上司でもあった故吉野俊彦・元理事からの依頼によるものであった。

吉野氏が土屋喬雄東大名誉教授とともに、結城の郷里・山形県赤湯町(現在の南陽市)の臨雲文庫に保管されている結城関係書簡の重要性に着目されたのは、調査局内国調査課長の頃だというから、随分古い話である。吉野氏は、いずれこの書簡を材料として戦前・戦時期の金融経済史を纏めたいという構想を持っておられたようであるが、その後も多忙な日々が続いたため、その構想を実現することなく長い時間が経過した。

そして昭和六十年代に入って、『日本銀行百年史』編纂作業を終えて母行を退職された八木さんに、この作業の継続を委託されたのである。八木さんの専門的能力とお人柄に対する、吉野氏の並々ならぬ信頼があったからこそのことであろう。

結城豊太郎は、明治三十七年、日本銀行に入行し、名古屋支店長・大阪支店長を務めた後、安田保善社専務理事に転じ、さらに日本興業銀行総裁・大蔵大臣・日本銀行総裁などを歴任した。名古屋支店長になったのは第一次世界大戦中の大正四年、日本興業銀行総裁就任は金輸出が解禁になった昭和五年、大蔵大臣次いで日本銀行総裁に就任したのが日中戦争が勃発した昭和十二年と並べただけで、結城が日本経済の激動期にいかに重要な役割を演じていたかが分かろうというものである。

本書は、そうした結城の活躍を時系列的に追う形で記述されているが、結城がそれぞれの時期に要職を占めていたから、本書の内容は結果的に戦前・戦時期の日本金融史を辿るのに近いものになっている。

ここで本書の内容を簡単に紹介しておくことにしよう。

まず序章と第一章は、日銀入行から大阪支店長までの時期である。ここでは紐育代理店監督役付時代の勉強振りや第一次世界大戦期・戦後期の経済混乱に対して具体的な政策提言を続ける有能な政策マンとしての結城が描かれている。

第二章は安田保善社時代である。ここで結城は安田財閥近代化のための大改革に努力し、着実な成果を上げたにもかかわらず、その後反対派の強い抵抗にあって結局不本意な形で安田を去ることになる。その間の事情がかなり詳しく述べられている。

第三章は興銀総裁時代である。ここでは不況に苦しむ産業界に積極的な救済融資を実行し、財界において次第に大きな力を持つようになる経緯が語られている。

第四章の大蔵大臣時代は、軍部寄りに大きく舵を切った馬場財政の後に登場した結城財政をめぐる当時の雰囲気がよく伝えられている。

さて日銀総裁時代の第五章は、いわば苦悩する結城の姿を描き出しているが、この点については後にまた触れることとしたい。


本書の特徴は、副題にもあるように、叙述の材料として結城関係書簡が用いられているところにある。書簡の大部分は結城が受け取ったもので、差出人は交友関係にあった経済人が多い。書簡というのは、第三者の目に触れることを予想することなく書かれているから、ことの真実や裏面の事情を伝えていることが多く、その意味で歴史研究にとって貴重な資料である。

本書にも、第一次世界大戦終了直後に成立した市中銀行の頂金利子協定に日銀が関わった状況を伝えるもの、また太平洋戦争開戦によって浮上した戦時金融金庫の設立をめぐって興銀総裁が結城日銀総裁にその阻止を訴えている書簡など、注目すべき貴重なものが含まれている。

ただ書簡には、体系性もなければ、内容の精粗もまちまちで、資料としての限界もまた大きいから、歴史の叙述にあたっては書簡以外の多くの文献・資料に依存しなければならないのは当然である。その点で八木さんは、長年、日本金融史研究の業務に携わってきただけに、そうした文献・資料に精通しておられた。本書には、その豊富な蓄積がいかんなく生かされており、それが記述の内容に説得力を持たせている。

本書の内容はかなり専門的なものではあるが、文体は読みやすく、堅苦しさを感じさせない。例えば、日銀入行をめぐる苦労話など、興味深いエピソードが随所に散りばめられ、結城の人物像を浮かび上がらせるのに役立っているし、また数多い登場人物についても生き生きと描写され、それがまた本書の魅力の一つになっている。


結城の日銀総裁在任期間は、そのまま日本の戦時期と重なる。そのような困難な時期にあって、結城は何を考え、何を為そうとしていたのであろうか。

この疑問を解くのはなかなか難しい作業であるが、日銀総裁時代を扱った第五章はあえてこの間題に答えを出そうとしているようにみえる。そこには、日中の平和回復を願う結城の姿があり、経済統制が強化される状況のなかで、官僚による金融統制を避けようとする努力や、日銀法政府案に抵抗する経過が語られている。また膨大な軍事費の調達に協カしながらもなんとか健全通貨路線を守りたいという苦悩にも触れられている。

やがて結城は次第に政府や軍部との対立を深めていく。そして結城の願いや努力もむなしく、結局日本は悲惨な結末を迎える。八木さんは本書の最後で、こうした結城の姿を「挫折の総裁」、「悲劇の総裁」であったと結んでいる。私には、この表現に八木さんの結城総裁に対する敬愛の情が滲んでいると感じられた。


八木さんが吉野氏の依頼で結城書簡に取り組んでから二十年以上の年月が経過した。その間、残念なことに吉野氏は本書の完成をみることなく、鬼籍に入られた。こうした事情もあって、その後金融史に詳しい齋藤壽彦教授(千葉商科大学)が監修の労をとるとともに、出版に漕ぎつけるまでにいろいろ尽力された。八木さんの仕事を高く評価されたからである。

いま八木さんはちょうど八十歳台の半ばである。母行退職後の八木さんは大病を患ったこともあり、これまで平穏な老後の日々を送ったという訳ではない。しかし八木さんの向学心・研究心はまったく衰えをみせず、千葉商科大学経済研究所の客員研究員を務めたり学術誌に論文を発表したりといった活動を続けてこられた。元気な高齢者が多い昨今とはいえ、八木さんのこのバイタリティ・精神カには全く脱帽せざるをえない。

激動の戦前・戦時期に大きな足跡を残した結城豊太郎について、これまでに書かれたものは極めて少なく、その業績の全貌を学術的視点からの評価にも耐えうるような形で纏められたものはなかったと言ってよい。それが本書の出版によって漸く実現した。しかもそれが日銀OBの手によってできたというのは嬉しい限りである。

日本銀行総裁 結城豊太郎 ―書簡にみるその半生―

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八木慶和 著 齋藤壽彦 監修 

政治経済研究所 『政経研究』 第90号(2008年5月)
齋藤壽彦 (政治経済研究所理事・千葉商科大学教授)

 

《本の紹介》
八木慶和著 『日本銀行総裁 結城豊太郎』を監修して

2007年に学術出版会から八木慶和著・齋藤壽彦監修『日本銀行総裁結城豊太郎―書簡にみるその半生―』が出版された。同書は刊行後、多くの注目を浴びている。著者の八木氏は元日本銀行職員で、同行のアーキビスト(史料係)であったといえる人である。私は監修の経過や同書刊行後の反響などについて地方金融史研究会における研究会(2008年2月22日)で報告したが、この本の監修者として改めてそのことについて記してみたい。

私自身が本書の刊行に関与しているから私が本書を論評するというのはおかしいと思われるかもしれないが、私宛に送付されてきた読者の感想文を紹介するという形をとりながら、できるだけ客観的に本書について記述したい。


1.本書刊行の経緯

本書刊行の意図は次のようなものである。本書は結城豊太郎が受け取った手紙を手掛かりに、第1次大戦末期から太平洋戦争期に至る時期の金融経済の推移と、その間における結城の活躍について述べようとするものである。結城豊太郎宛ての書簡を時代別にたどり、その手紙にコメントを加えつつ、当時の金融界の動きと、その間における結城の活躍を明らかにしようとしている。

結城豊太郎の手紙は南陽市立結城記念館「臨雲文庫」に所蔵されている。なお、結城豊太郎関係文書については東京大学法学部近代立法過程研究会編『結城豊太郎関係文書目録』を参照されたい。

八木氏の本書執筆の経緯については本書の「はしがき」において述べられている。これによれば、吉野俊彦氏が結城の資料を発掘し、公刊構想を抱いたが、その後、同氏多忙等の事情により、八木氏に原稿執筆が依頼された。吉野氏の指導のもとに、八木氏が結城豊太郎宛書簡に基づく本の原稿執筆に従事した。その際、結城の金融活動に重点を置き、個人的側面、政治活動などは削除した。

本書監修の経緯については私は「監修にあたって」において述べておいた。吉野氏の死去後、私が八木氏からの出版相談を受け、監修作業を引受けた。私は校閲(主観的な記述の削除等)、参考文献の取り纏め、校正、索引の作成、出版社との交渉を行った。

本書に客観性を持たせるために、高橋是清に対する個人攻撃に近い文章や、共済生命争議事件解決にあたって結城が北一輝へ資金提供をしたとの推測や、戦争期の日本銀行について、東大出身者に肩を持ち商業学校出の職員を軽視した表現や、日本銀行行員の個人能力評価について述べたりした記述等を原稿から削除した。共済生命争議では原稿にあった中村一派を中村派という表現に改めた。原稿をいかしたほうが読み物としてはおもしろかったであろうが、

私はこの本の学術的価値が疑われてはならないとの配慮から、資料的裏付けのない表現を削除したのである。なお、八木氏の原稿のコピーは斉藤が保管しているから原稿を確認することは可能である。


2.結城豊太郎の略歴

結城豊太郎の略歴を述べておこう。結城は1877(明治10)年に山形県赤湯村で生まれ、1951年に死去(享年74歳)している。

結城は、1904年に日本銀行に入行し、1915(大正4)年に名古屋支店長1918年に大阪支店長、 1919年に理事(大阪支店長嘱託)となっている。

1921年に安田保善社専務理事、安田銀行副頭取となったが、1929(昭和4)年に安田保善社専務理事を解任され、安田銀行副頭取も辞任している。

1930年に日本興業銀行総裁に就任した。

1937(昭和12)年に日本興業銀行総裁を辞任し、大蔵大臣に就任した。

1937年に大蔵大臣を辞任し、第15代日本銀行総裁に就任した。1944年に日本銀行総裁を辞任している。

1944年10月から1950年12月まで金融学会第2代会長を務めている(春井久志氏の指摘、日本金融学会編『日本金融学会60年の歩み』東洋経済新報社、2005年、366ページ)。

このように結城は日本の戦前の財政金融における大立者であった人物である。


3.本書の内容

本書は時期的には 1904年に結城が日本銀行に入行し、第2次大戦後の1951年に逝去するまでをカバーしている。結城の個人史ではなく、結城が関わった金融上の重大な事件や政策を中心に叙述されている。

具体的には、第1次大戦期や大戦後の日本銀行名古屋支店長・大阪支店長としての活躍、安田保善社専務理事時代における安田財閥近代化のための施策、日本興業銀行総裁として推進した同行の積極融資政策、日本銀行総裁時代の戦時金融政策の運営や金融体制に関する政策などが本書の中心を構成している。

大蔵大臣在任期問はわずか4カ月たらずであったが、当時の雰囲気も伝えている。


4.本書の意義

本書の功績として、第1に、手紙の解読を行っていることをあげることができる。八木氏は判読が困難な手書きの手紙の解読作業を行っているのである。

第2に、新たな事実を発掘していることをあげることができる。具体的には、まず、1918年の東京・大阪預金利子協定に関して詳しく記述している。

鴻池銀行の改組の事情を明らかにしている。本書は、1920年恐慌時における日本銀行の救済活動における結城の役割を明らかにしている。

安田銀行の預金利子協定違反問題に関して、鈴木茂三郎『財界人物読本』のみに依拠した吉野の記述を、本書は『銀行通信録』他で修正している。

共済生命保険会社のストライキ事件について吉野は、このストライキを結城の強引なことの運び方に起因したものとするが、八木氏はこれを共済生命保険会社の内紛として、その経緯を細かく記述している。改革派と守旧派の対立、安田の近代化をめぐる路線対立を明らかにして居る。浅井良夫氏は私宛の葉書の中で、人間関係の機微にわたる部分が歴史的には決定的な意味をもつことを改めて思い知らされた、と記されている。

本書は日本銀行法制定をめぐる大蔵・日銀の交渉経過について詳細に記述している。植田欣次氏は、私宛の手紙の中で次のように述べられている。第5章が圧巻で数多くのことを考えさせられた。日銀に対する大蔵官僚の支配が強まる中で、健全通貨の発行が困難になる中でいかに日本銀行が苦労し、また結城が信念を貫こうとしていたかを解明している。日銀法の制定が日銀の人達の反対を押し切ってなされたものであることは知らなかった、と。また及能正男氏は、『エコノミスト』2008年4月15日号の中で、本書が日銀法をめぐるさまざまな人間模様を生々しく伝えていると評されている。

本書は日本銀行総裁としての結城を「挫折の総裁」、「悲劇の総裁」であったとする(446ページ)。結城は戦時下で健全通貨路線を守ろうとして守れなかったということ、その苦悩を本書は明らかにしている。鈴木恒一氏は日銀OB会の会員誌『日の友』における本書の書評の中でこのことに言及されているとのことである。

第3に、本書は結城豊太郎の半生を解明している。江口英一氏は、私宛の手紙の中で、書簡にコメントを付して公刊するという吉野氏のプランを超えて、結城豊太郎の人となりと業績とが、時々 の時代的背景の中で浮かび上がっている、と本書を評されている。また、鈴木恒一氏は、書簡や書簡以外の多くの文献を駆使し、また著者が長年勤務した日本銀行で得た豊富な蓄積を活用して、結城の半生を描き出すことに成功した、と『金融経済研究』第26号(2008年4月)における本書の書評の中で述べられている。本書受取状の中で、南陽市立結城記念館の西山清館長は、従来、結城の伝記がほとんどなく、同館としても公的分野での結城の行動とその背景について精査することができなかったとして、本書の結城伝としての意義を認めている。

第4に、本書は金融関係の通史を概観している。本書は第1次大戦以降第2次大戦までの金融関係の通史を概観する上での参考となる。研究者だけでなく一般読者にとっても参考となる。結城記念館理事の完戸昭夫氏は私宛の葉書の中で、第2次大戦期、それ以前の時期の日本経済の変化がわかりやすく表現されている、と本書について述べられている。


5.本書の問題点

もちろん本書に問題点がないわけではない。江口英一氏は、先の手紙の中で、従来の書物(例えば吉野俊彦『歴代日本銀行総裁論』毎日新聞社、1976年)に比べて、八木氏は、結城にやや、身贔屓である、と記されている。また、東忠尚氏は私宛の葉書の中で、伝記の弊害として結城をやや高評価しすぎのきらいがあり、安田を追われたのは、かれの性格が災いした一面もある、ということを指摘されている。監修者として私は結城を過大評価したと読者に受け取られないような配慮をしたつもりであるが、一方で著者である八木氏の主張を尊重するように配慮した。本書の叙述が結城の過大評価といえるかどうかについては今後の研究にまつこととしたい。

江口英一氏は、日本銀行内の様々な政策思想の対比・整理が必要であり、八木氏は結城豊太郎を高く評価し、深井英五に批判的であるが、このような評価でよいか検討する必要がある(179、343ページ等)、と私に指摘されている。このことは今後の研究における新たな論点となるであろう。

江口英一氏はまた、日本銀行法改正問題に関する日本銀行内の考え方を(たとえば、プルーデンス政策や商業銀行主義についての考え方)を整理、検討する必要がある、と記されている。 1942 年に日銀法が大蔵省に押し切られた形で成立したのは日本銀行内に優れた人材が残っていなかったからといえるのか、ということが検討されなければならないであろう。

結城は井上準之助や深井英五のような正当派ではなく、きわめて有能かつ実行力に富む実務型リーダーではなかったか、ということを鈴木恒一氏が『金融経済研究』の書評の中で指摘されている。このことは確かに検討に値しよう。

石井寛治氏は、本書において手紙の文章が原文どおりに記載されているわけではない、と私に述べられている。厳密な歴史研究の観点からいえばそのような問題点があることは認めざるを得ない。

このような問題点があるとはいえ、本紹介の4で述べたように本書刊行の意義は大きいと私は考える。本書が研究者をはじめ、多くの方に読まれることを監修者として願ってやまない。

日本銀行総裁 結城豊太郎 ―書簡にみるその半生―

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八木慶和 著 齋藤壽彦 監修

日本金融学会 『金融経済研究』 2008年4月(第26号)
鈴木恒一 
(元文教大学)
 

戦時期に大蔵大臣や日本銀行総裁を務めた結城豊太郎に宛てられた書簡が、彼の出身地・山形県南陽市の「臨雲文庫」に所蔵されている。長年その解読作業にあたってきた著者が歴史的に意味のある書簡を選んで、それをもとに結城豊太郎の半生を描いたのが本書である。書簡というのは、第三者の目に触れることを予想せずに書かれているだけに、歴史の真実を内包している場合が少なくない。戦前から戦時にかけて、日本銀行、安田保善社、日本興業銀行、大蔵省の要職にあって、いろいろな事件や政策にタッチしてきた結城だけに、書簡を通じてその半生に迫ろうという試みは、金融史研究の観点からも興味ある作業である。もっとも歴史研究にとっての必要な材料という点でいえば、内容の精粗・体系性などから見て、書簡には大きな限界があるし、反面、何気ない文面に実は重要な意味が含まれているという場合もある。したがって、本書の夕イトルが「書簡にみる」と謳っても、書簡のみで全体像を見ることは不可能で、著者はそうした書簡の限界を克服するために、多くの資料・文献を駆使し、また著者が長年勤務した日本銀行で得た豊富な蓄積を活用して、結城の半生を描き出すことに成功した。

本書は、時期的には 1904年(明治37年)結城が日本銀行に入行し、第2次 世界大戦後の1951 年(昭和26年)に逝去するまでをカバーしているが、その内容は結城の個人史ではなく、結城がかかわった金融史上の重要な事件や政策を中心に叙述されている。具体的には、第1次世界大戦後の経済混乱期における日本銀行名古屋支店長・大阪支店長としての活躍、安田保善社専務理事(1921〜29年)時代における安田財閥近代化のための施策、日本興業銀行総裁(1930〜37年)として推進した同行の積極融資政策、日本銀行総裁(1937〜44年)時代の戦時金融政策の運営や金融体制に関する施策などが本書の中心を構成している。また大蔵大臣(1937年)としては在任期間わずか4カ月足らずの短期であったが、大きく軍部寄りに舵をきった馬場財政の後だけに、結城財政をめぐる当時の雰囲気を伝える材料も興味深い。

以上のような戦間期・戦時期における日本の金融の展開をめぐって、本書にはいくつかの興味ある、注目すべき内容が含まれている。その1つは、1918年の東京・大阪の預金利子協定に関する記述である。預金利子について何らかの規制を加えるという方式は、日本のみならず海外においても戦前から金融秩序維持のための手段として実施され、そしてそれは実質的に戦後に引き継がれてきた。それだけに預金利子協定についてはすでに多くの文献や研究が蓄積されているが、本書は1918年の協定成立のプロセスを生き生きと描き、協定成立についての日本銀行の関与とその間における結城大阪支店長の活躍を明らかにしている。経済史研究において、政策形成のプロセスを解明したいと考える秤究者は少なくないが、実際にはそれはきわめて困難な作業である。しかし本書は、書簡という材料を得て、預金利子協定の歴史の中で重要な意味を持っている1918 年の協定成立の実相に迫ることができた。

次は、結城の安田保善社専務理事・安田銀行副頭取時代に関する部分である。結城は次々と果敢な改革を実行したが、それに対する反撥も強く、それが再三内部抗争に発展し、結局1929年、不本意な形で安田を去ることになる。安田時代に起きた、結城をめぐるいろいろなトラブルの原因について、結城の性格や強引な手法を問題視する見方もあるが、事の本質は改革派と守旧派の対立であり、今日、結城の改革は安田近代化の第一歩として内部からも高く評価されている(例えば『富士銀行の百年』)。改革に抵抗を伴うのは世の常であり、またそれが深刻な事態に発展したことについては、そこにいろいろな要因が絡んでいたであろうことは容易に想像される。そうした複雑な問題であるが、本書は、結城と反対派との抗争の経過を各種資料によって丹念にフォローすることによって、抗争の本質が安田近代化をめぐる路線対立であったという見方に説得力を持たせている。

結城の経歴からすれば、次は日本興業銀行総裁時代、大蔵大臣時代ということになるが、紙数の制約もあり、この部分については触れずに、最後の日本銀行総裁時代に入ることにしよう。この時期は全体が戦時期という特異な期間であり、その特異性のためか、これまでの研究の蓄積は比較的少ない。しかし戦時期にできた金融の枠組みで、戦後に引き継がれ、あるいはその影響を引きずったものは決して少なくない。その意味で、戦時金融の研究はもっと進められるべきだ、とつねづね評者は考えている。そうした戦時金融についての史的研究という視点からも、本書は高く評価されるべきである。ここで本書に盛られたいくつかの興味ある史実を挙げると、日本銀行法制定の経過、都市銀行の合同問題、戦時金融金庫設立と日本興業銀行の関係などがある。これらの諸問題はいずれも事実そのものは周知のことであるが、日本銀行法制定をめぐる大蔵・日銀の対立とその交渉経過についての叙述は興味深いし、さらに都市銀行合同・戦時金融金庫をめぐる問題については関連した書簡が生々しい当時の雰囲気を伝えている。このほか結城が官治的な金融統制を避ける意図で、金融界の自主統制組織「全国金融協議会」の設立を主導した経緯、さらには満州中央銀行総裁人事をめぐる書簡なども注目される。

以上のように結城の活動は、戦間期・戦時期の金融の重要な事象に広くかかわっていたが、本書は、書簡という材料によって多くの資料を補完し,また結城をめぐる対人関係を追いかけるスタイルをとることによって、戦間期・戦時期の金融の歴史を臨場感のある叙述で明らかにしたところに特徴がある。同時に本書は、そうした事象をフォローすることによって、結果的に当時の金融の動きを時系列的に理解しうるというメリットを持たせることができた。また本書全体の叙述を通して、そこに結城の公人としての全体像を強く浮かび上がらせている。そこで最後に、結城という人物が評者にどのように写ったかということを述べてみたい。

本書は本文の最後で、日本銀行総裁としての結城を「挫折の総裁」「悲劇の総裁」であった(446ページ)と結んでいる。これはどういう意味であろうか。あえて評者の推察を許して頂けるならば、結城は決して全体主義者でもなければインフレーションニストでもなかったにもかかわらず、戦時期という不幸な時期に日本銀行総裁という任にあったばかりに、こと志と異なり、異常な通貨膨張と激しい戦後インフレーションという結果を招いてしまったということであろう。確かにあの狂気の時代ともいうべき戦時期において、誰が日本銀行総裁であったとしても、「健全通貨」など守れるわけはない。そうした困難な環境にありながらも、結城が少しでも「健全通貨」路線を守ろう、官僚による経済統制を避けようと努力したことは、本書の叙述からも明らかである。その意味で、本書の結城に対する評価は首肯できる。

そういった基本的評価を認めながらも、評者は若千ニュアンスの異なる感想を持つ。本書を通読して評者が持った、結城という人物についての印象は、きわめて有能かつ実行力に富む実務型リーダーではなかったかということである。このことは、いろいろな金融問題について、結城がしばしば適切な施策を提言し、その実現に力を尽くしたことに表われている。ただ中央銀行のあり方についての結城の考え方は、本書にも登場する。先輩にあたる井上準之助や深井英五に見られる正統派のそれとはやや異なる。事実、結城総裁の下で日本銀行の政策路線は商業金融中心主義から産業金融重視に大きく転換した。本書でも述べているように、これは政策思想の転換であり、同時に戦時という時代の要求でもあった(360〜365ページ)。そうした時代の要求に応える素地が、結城の性格や能力、中央銀行についての考え方にあったのではないか。つまり、どのような状況にあっても一応の答を出すという実務型の優れた資質、中央銀行のあり方についての弾力的姿勢、これが結城の特色であり、それは戦時体制において日本銀行総裁に求められた要件であった。その意味で、結城は戦時という特異な時代が求めた総裁であったと考えられる。結城自身もまた、当時の状況の厳しさを十分認識しながら、その中でベストは無理としても、ベターを実現できるのは自分しかいない、という自負があったのではないか。そのように考えると、結城が「挫折の総裁」となり、「悲劇の総裁」となった原因の一斑は、実は結城自身に内在していたといえるのではないか。これが本書を読了して評者が抱いた結城の人物像についての感想であった。

イギリス王政復古期のシェイクスピアと女性演劇人

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山崎順子 著

下野新聞 読書欄(17面)
郷土コーナー(2007年11月16日)

 

著者は鹿沼市在住で、日本シェイクスピア協会、国際シェイクスピア協会会員。今年3月まで国学院栃木短大の教授を務めた。

本書は20年以上にわたって執筆した著書のシェイクスピアに関する論文をまとめて収録している。王政復古期のシェイクスピア改作劇、女性演劇人たちの活躍分野について論じている。

シェイクスピア劇は、「リア王」「マクベス」「トロイラスとクレシダ」などほとんどが改作者によって書き改められているが、「オセロー」はほとんど原作のまま上映された。なぜ「オセロー」は改作されなかったのか。そうしたなぞや、「ハムレット」の生きる時間などについて詳細に分析している。

イギリス王政復古期のシェイクスピアと女性演劇人

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山崎順子 著

東京女子大学同窓会 『東京女子大学同窓会会報』 
第45号(2007年9月1日)

 

シェイクスピア劇は、シェイクスピア没後、ピューリタン革命で、王制が廃止され劇場が閉鎖された内乱の空白期を挟んで、次時代の王政復古期には当時のフランス文化の影響を受けた劇形式、舞台様式、観客の嗜好などの変化を反映し、ほとんどは改作改変されて上演された。(端的に言えば、シェイクスピアの英語が、このころ既に理解されにくくなっていたのである。)

シェイクスピア劇が私達の現代にまで伝えられているのは、王政復古期にシェイクスピア劇が改作されて、次代に引き継がれたことを抜きにしては語れない。本書では、第1部で、シェイクスピア改作劇とシエイクスピア劇を比較し、それらが王政復古期からシェイクスピア劇再評価の機運の高まる18世紀演劇の中でどのような位置を占め、どのように受容されていくのかを見、第2部では、王政復古期から18世紀にかけてそれらの回りに華々しく登場してくる女優、女性劇作家、女性批評家たちの活躍を時代と文化との関わりから、考察している。第3部では、英文での論文も納めた。
 

卒後10年後に(療養生活を経て)―今では社会人復学は珍しいことではないが、30年前には希有のことで先生方が温かく迎えてくださった―東京女子大の修士課程、お茶の水女子大学の博士課程で、学ばせていただきました。その後日本シェイクスピア学会、『 国際シェイクスピアと歌舞伎学会』 などで発表したものを含め、折々に書いたものをこのほど1 冊にまとめました。

シェイクスピア劇と時代時代によって人々がどのように向かい合い享受したか、イギリス演劇のみならず、歴史、女性問題に関心のある方々にも手にとっていただければうれしいです。(尚、本書には理解の助けになる写真、図版など多く、年表も付いています。)

平和を求めて ―戦中派は訴える

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日野資純 著

金曜日 『週刊金曜日』 No.661(2007年7・6号)
きんようぶんか読書 編集部が選ぶ3冊

 

生きる意欲を国家が阻害する

日本語の研究者でありながら、新聞や雑誌を舞台に著者は歴史・政治問題に積極的な発言を行なっている。それは、死と向き合い、生を求める意欲がいかに強いか、を実感として味わったからという。『生を求める意慾』を国家が阻害するという事態をどう防ぐか、具体例で言及していく。

臨時教育審議会 ―その提言と教育改革の展開

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渡部 蓊 著

教育開発研究所 『教職研究』 2007年4月号
青木栄一 (国立教育政策研究所研究員)

 

教育改革研究に必要な視点

臨教審(臨時教育審議会)をご存じだろうか。臨教審は1984年に中曾根康弘首相(当時)が設置した内閣直属の審議会であり、4次にわたる答申を提出し、1987年に解散した。この審議会は法律により設置され、委員は国会で議決を経て任命された。この政治的・行政的に高度な設置形態は、戦後直後に設置された教育刷新委員会に次いで2度目だった(それ以降の事例はない)。

臨教審は教育の自由化を提言するなど世論を喚起し、答申では個性の重視、生涯学習体系への移行、国際化・情報化など変化への対応(本書九頁)といった提言を行ったが、実現したものはそれほど多くなく、ある研究によれば[失敗」であったという(レオナード・ショッパ著/小川正人監訳『日本の教育政策過程』三省堂)。

ところで、1990年代後半から開始され、今日まで続く教育改革は第三の教育改革と呼ばれているが、実は臨教審も「第三の教育改革」を標傍した。そのため、90年代後半以降の教育改革の源流が臨教審であり、それ以降、教育改革が継続しているという理解が最近では一般的となっている。

本書は、この臨教審の審議過程、答申に至る関係者の動向、その後の対応状況などをまとめたものである。本書の最大の特徴は、著者の前著『教育行政』と同様に、国会答弁、審議会答申、公式文書、関連報告書、通知・通達からの長大な引用を多用するところにある(前著については、高橋寛人氏による本誌2005年1月号掲載の書評を参照)。

年表が数多く掲載されていることも含め、本書は教育改革がこれまでどのように進められてきたかを理解するための素材が多く盛り込まれている。最近はインターネット上に政府審議会の議事録が即時掲載されるようになっているが、臨教審の時期の資料はそれほどネット上にはなく、本書の資料的価値は高い。今回は審議会に焦点を当てたこともあり、審議の議題や意見陳述を行った団体名といったものも数多く紹介されている。

このように、答申文のほかの資料も引用するのは、審議会の答申が委員や行政組織だけでつくられるのではなく、多様な意見が反映されるものであるという著者の認識が背景にあると考えられる(こういう政策過程の認識方法を多元主義という)。

評者も最近教育改革の政策過程に関する歴史分析に着手したこともあり、本書から研究上の関心を喚起された。ある改革を理解する際に、前後の類似の改革との比較や連続性を重視することは大切なことであるが、同時に相違点も考慮する必要がある。このことが本書のメッセージである。

まず、90年代後半以降の教育改革でみられた改革アイディアのすべてが臨教審由来のものではない、という記述である(84〜85頁)。たしかに、どちらも第三の教育改革と位置づけられているが、それぞれの改革の時代状況(政治状況・社会経済状況)は異なる。実は臨教審も過去の中教審の四六答申「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」(1971年)との類似性が指摘されることがある。四六答申も第三の教育改革を標傍していたからである(これまでに3回も第三の教育改革が試みられたということになる)。本書第2章の記述は、学校体系改革を素材にして、臨教審と四六答申の相違点を析出している。

本書は戦後の教育改革の流れを適切に理解するための有用な羅針盤であるといえるだろう。

丹羽文雄と田村泰次郎

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濱川勝彦・半田美永・秦 昌弘・尾西康充 編著

昭和文学会 『昭和文学研究』 第55集(2007年9月号)
山岸郁子

〈作家の作品の深層にある故郷〉である四日市、という共通項の下に三重大学で開催された両作家のシンポジウムから発展した論集である。各8本(計16本)の論究と、研究史、年譜が収められており、大変充実した内容から構成されている。

なぜこの二作家に対し戦後多くの批評家があそこまで批判的な論陣を張らねばならなかったのか、その理由を考察することによって戦後啓蒙としての文学的言説に対する期待のよせ方も見えてくるのではないだろうか。

高橋昌子「遡源の回避―丹羽文雄初期作品の構造」、高津祐典「田村泰次郎の評価を考える―雑誌「世界文化」と「肉体の悪魔」において論及されているように彼らの言説が〈時代を渉ってゆく多くの日本人に通有のもの〉であったからこそ、批判的な言説でそれらを覆わねばならなかったのに違いない。丹羽が中村光夫の「風俗小説論」に対して憤懣を重ねていくが、まず主体性の再構築ありきといった戦後批評の問題点をここから逆にあぶりだすことができよう。

今後さらに資料のデータべースが構築され、二作家の研究が牽引、活性化されていくことによって戦前・戦後の文学地図が読み替えられる可能性をも感じさせる1冊となっている。

丹羽文雄と田村泰次郎

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濱川勝彦・半田美永・秦 昌弘・尾西康充 編著

至文堂 『国文学 解釈と鑑賞』 2007年8月号
井上三朗 (山口大学教授)

本書は三重県出身の丹羽文雄と田村泰光郎にかんする研究書である。

本書は2部に分かれ、前半部は丹羽文雄にかかわる8篇の論考から成り立つ。最初の「遡源の回避」は、丹羽の初期作品の人物たちの「根なし思考」が作品の構造におよぼす影響を考察している。2番目の「丹羽文雄『勤王屆出』試論」は、丹羽の最初の歴史小説を、それが依拠する史料と比較しつつ分析している。3番目の「丹羽文雄『蛇と鳩』論」では、丹羽が新興宗教を風刺的に批判するだけではなく、自身の宗教観から新興宗教を検討し、その救済を描き、問題と意義を示したことが論じられている。4番目の「丹羽文雄『青麦』私論」は、主人公如哉の息子鈴鹿に焦点を合わせ、鈴鹿の成長過程をたどっている。5番目の「丹羽文雄のミニマリズム」は、へミングウェイに共感する丹羽の戦後の作品における、ミニマル・リアリズムの手法を調査している。6番目の「丹羽文雄『親鸞』における二つの問題」では、親鷲の、六角堂参籠における夢告と悪人正機の説にたいする丹羽の見解が吟味されている。7番目の「丹羽文雄試論」は、丹羽の生家崇顕寺の寺族史と彼の宗教観を問題にしている。最後の「『文学者』時代の瀬戸内晴美」は、丹羽の主宰する同人誌、『文学者』時代の瀬戸内の文学活動を明らかにしている。

本書の後半部分には、田村泰次郎にかんする8篇の論文が収録されている。最初の「田村泰次郎試論」は、文芸復興期前後の田村への横光利一の影響関係を考究している。2番目の「田村泰次郎の戦場小説」は、田村の戦争小説観を踏まえながら、『肉体の悪魔』らの戦場小説を検討している。3番目の「『田村泰次郎』の評価を考える」は、『肉体の悪魔にたいする発表当時の評価と、そこから漏れた読みとを示している。4番目の「田村泰光郎『渇く日日』論」は、自筆原稿と照合しつつ作品を読解するとともに、田村の小説の舞台となった中国河北省保定市付近を著者が訪問した体験を綴っている。5番目の「『救済』される女たち」は、被占領下の検閲制度とからめて、『肉体の門』の舞台・映画脚本と原作とを比較している。6番目の「肉体文学新論」は、田村の肉体文学の実相を、戦場での兵士の行動や復員兵の心情を描いた作品をもとに検証している。7番目の「田村泰次郎とカストリ雑誌」では、カストリ雑話での田村の活動が浮き彫りにされている。最後の「田村泰次郎文庫の日記と書簡」は、同文庫が所有する若干の重要な資料(日記と書簡)を紹介したものである。

以上が本書の内容である。末尾には2人の作家の研究史、年譜が付されている。本書は、この2人を研究する際、必読の文献である。

丹羽文雄と田村泰次郎

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濱川勝彦・半田美永・秦 昌弘・尾西康充 編著

解釈学会 『解釈』 2007年7・8月号
奥出 健 (湘南短期大学学長)

本田佳子『父・丹羽文雄介護の日々』(中央公論社)が評判になったのはついこの間、と思っていたのが、半田美水氏の「序にかえて」でもう15年近く経っていると知らされた。「光陰矢の如し」という箴言を実感するのは老齢になってからであるということを改めて思い知らされた。時間は何ものをも待たない。あらゆることを人間から忘却させてゆく。

さて、講談社版『全集』があり、研究の一里塚が設定されている丹羽はともかく、田村泰次郎などは生存中に大衆にあれほど膾炙されていながら、作品はすでに忘却の入り口にさしかかっているという観がないでもない。印象として田村泰次郎の仕事はなかなか掘り返されることがなかったという思いが強い。

もっとも本書において丹羽・田村の『研究史』をまとめた岡本和誼氏が『田村泰次郎選集』全5巻が平成17年に刊行されたということを報告してくれているので、これは慶賀にたえない。この2作家は三重県に所縁があり、2人とも三重県立第二中学(現四日市高校)で学び、早稲田に進学するという、いみじき因縁があった。丹羽が中学に進学したときには田村泰次郎の父親が校長であったという寄妙な因縁も本書の年譜によって知ることができる。このような地域や因縁で結ばれた作家を、その地域に関わりのある(あった)研究者が主体となって共同で掘り起こしていくという作業には興味ふかい事実や因縁が掘り起こされることが多い。本書も丹羽、田村にそれぞれ関わる興味深い論考が8本ずつ、合計16本が掲載されている。また資料として研究史、年譜が付されてあり、地域から照射する研究書として重厚感がある。

丹羽文雄論で冒頭を飾るのは、高橋昌子氏「潮源の回避―丹羽文雄初期作品の構造」である。氏は論の冒頭において「作中人物の思惟構造が昨中の人物関係構図や作品自体の意想と相似形をなしている」と問題提起し、その実態を証明してゆくスタイルをとっている。「鮎」「贅肉」「煩悩愚足」など初期の世に知られた作品をとりあげつつ、丹羽の初期作品には「根無し」「根本消去」的な人物、つまり「根本に立ち入る思索を回避して、表層にある感情や世間的人間観を取り合わせて生きつつ…その生き方も偽装である」ごとき存在が多く登場すると分析する。こういう人物は当然「迎合」「方便」を多用するが、これら登場人物たちの人間根源究明の欠落は作者の「手記的手法」のゆえに現れるのではなく、その「思惟構造」自体にあるのだと結論づけている。そういう初期登場人物たちの通俗性は、その後のいわゆる「中間小説」を量産していく丹羽の作風を暗示していたと説いている。

初期作品にかぎらず丹羽作品の生母ものといわれるものには高橋氏の言葉でいう「言動の発作性」「感情本意」があらゆるところに現れる。それを氏のいうような評語で言い切るか否かは微妙なところではある。思うに高橋氏は誠実に細かく初期作品を読みつづけた末、その繰り返し的な言説や内容に辟易としながらこの論をものしたのではなかったか。科学的態度は失わないように己を律しながらも執筆時にイラつく高橋氏の姿が目に浮かんだ。非難しているのではない、むしろ耐えて書き得た氏にエールを送りたいのである。

そのほか、丹羽論のなかで、興味をかきたてられたのは三品理絵氏「丹羽文雄のミニマリズム―戦後の丹羽作品とへミングウェイ」と、濱川勝彦氏「丹羽文雄『親驚』における二つの問題」である。前者は「誰がために鐘は鳴る」の丹羽解釈、すなわち「個人の情熱と行動」を重視する部分を抽出しつつ、丹羽の解釈は「ミニマリズム文学の書き手たちと」共通すると説く。そして「日常的性格の題材」「社会的広がりの欠如・空間の小ささ」「文体の簡潔さ」などミニマリズムの6点の特微を提示して、結局、丹羽の文学は「散文精神に裏打ちされた緻密なリアリズムのまなざし」をもつが、「『生母』へのこだわり、『風俗 』への着眼は、その素材の日常性格や扱われる空間の小ささを示している」と断じている。この論は量産作家としておうおうに低く見積もられている丹羽文学の底上げを狙う論として興味深かった。ただ「『生母 』へのこだわり、『風俗』への着眼」をそのまま散文精神と銘打つことができるのか、その箇所では疑問も残ったが、氏は「視点の相対化」の節において諸作品を論じ、単なるリアリズムではなく、「はみ出したリアリズム」という言葉を抽出し意味づけをしてくれている。

後者はただただ興味深く読んだ。親鸞の事跡として語られる六角堂参籠時の夢告の部分をめぐって、なぜ丹羽『親鷺』がそれを否定しているのか、また「悪人正機の説」の部分では丹羽が正しくその条件(悪人が正機される)を書き得ているか否かなど、まるで推理小説のように説いてくれているのが面白かった。そうすることによって中村光夫『風俗小説論』などでおとしめられた丹羽の仏教関連小説を再評価しているのである。水川布美子氏の論は「勤皇届出」の典拠との比較、その脚色の方法を論じたあと、本作品は新体制下に於けるジャーナリズムの動揺」期がうんだ産物であるとともにバルザックの影響を受けた創作方法転換期の作品と位置づけている。

半田美水氏の「青麦」論は、主人公・「鈴鹿」の「人生のまん中にいる」感覚や、父の描かれ方をめぐって論をすすめ、この作品がやがて『親驚』『蓮如』への萌芽となっていることを説いていて興味深い。

丹羽論では他に岡木和誼氏の「蛇と鳩」論、衣斐弘行氏「丹羽文雄論―その寺族史と宗教観からの視点」、竹添敦子氏「『文学者』時代の瀬戸内晴美」が収録されている。いずれも読み甲斐がある。

田村泰次郎は「肉体の悪魔」「肉体の門」で時代の寵児となったが、時代の変化とともに単なる風俗小説家として打ち捨てられた観がある。しかしいま逆に、過ぎ去った時代を照射する要素としてもその文学世界を再検討する時期にきている。カストリ雑誌の調査研究が近年充実してきているのも終戦後十年程度の期間が現代日本文化にとっていかに重要かが認識されてきているからだろう。その意味において三重県立図書館に田村泰次郎文庫が設置され資料が整備されたのはたいへん意味のあることである。

ところで田村論の冒頭を飾るのは、中川智寛氏の田村泰次郎論である。文芸復興論争や横光利一との影響関係に視点を定め、戦後の刺激的作品群によってのみ知られる田村泰次郎文学の「実」を初期作品群を論じることによって明らかにしようとした尖鋭的な論といえよう。

私の興味の範囲であるけれど、とくに注目しつつ読んだのが演川勝彦氏「田村泰次郎論―『肉体の悪魔』を中心に」と、原卓史氏「田村泰次郎とカストリ雑誌」であった。

前者は田村戦後作品をたどりながらその戦争観を追及している点において私の興味と一致した。まず濱川氏は「戦場と私―戦争文学のもう一つの眼」をとりあげ、そこで披瀝された「実戦の体験者だけが戦争小説を書ける。しかも一兵卒でなかった人の戦争小説は信じられない」や、自分が「戦場において人間以外のものであったことを認めるために原体験の忠実な表現者でなければならない」などという数点の特異な田村の視点を紹介している。いまとりあげた2点のみでも「肉体の悪魔」への道程は容易に推測できようが、氏はさらに「肉体の悪魔」の衛星的作品もとりあげ、戦場の実態を積極的価値として描き続けたその「肉体」のありようを説いてくれている。

原卓史氏の論は田村泰次郎がなぜ肉体作家としてのみ過剰に時代に受け入れられ、またそのゆえに時代に取り残されていったか、という要因をカストリ雑誌と田村とのかかわりを通して見事に証明している。高津祐典氏「『田村泰次郎』の評価を考える」には奥野健男の「田村泰次郎といえば『肉体の門』と条件反射的に浮かんできて、ジャーナリズムによって作者のその後の文学方向が規定されてしまった」という言葉が紹介され、それがいかに大衆に受け入れられたかは、「肉体が思考する」という言葉さえ流行ったと紹介してくれている。いま私は「大衆」に受け入れられた、とあえて記したが、その一要素としてカストリ雑誌へのいわゆる「肉体小説」の執筆、そういう雑誌での座談会での発言などが一要因であったことを原卓史氏の調査ははっきりととらえている。

尾西康充氏の詳細な作品現地踏査(中国河北地方)報告、鈴木昌司氏の田村泰次郎の資料紹介も興味深く読んだ。そのほか紹介のみにとどまるが先記の高津祐典氏「『田村泰次郎』の評価を考える」、天野知幸氏『救済』される女たち―被占領下で観られた『肉体の門』」、秦昌弘氏「肉体文学新論」が収録されている。

なお、この書評はややわがままに書かせていただいた。したがって興味深い、面白いなどという軽い言葉が頻出するが、ご容赦ねがいたい。

幸田露伴論考

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登尾 豊 著

『国文学 解釈と鑑賞』 2007年9月号
須田千里 (京都大学准教授)

本書は、露伴研究者として知られる著者のこれまでの論考をまとめたものである。昭和45年の「「五重塔」論―暴風雨の意味―」から、平成18年の「「幻談」考」まで、36年間にわたる30点の論考が、3部に再構成されている。

Ⅰは、作品論的に「露団々」「風流仏」「対髑髏」「一ロ剣」「いさなとり」「五重塔」「風流微塵蔵」「天うつ浪」「幽情記」「幻談」「連環記」等を論じたもので、本書の中核を成す。特に「「五重塔」論」と最祈の「露伴登場―「露団々」その他―」が力のこもった好論。前者は、作中の暴風雨が明治24年9月30日の台風3号に拠ることを考証、嵐の場面での「夜叉」の働きを人間の我慾への仏教的な刑罰と捉え、その嵐に耐えたことから、十兵衛の五重塔は我慾の所産ではないとする。十兵衛が死んでも立派に名を残」そうとしたことは、名誉慾などではなく、自己の存在の明証を求める心であり、世俗的な我慾とは別物だとする結論は説得的である。『新日本古典文学大系 明治編 幸田露伴集』の解説として書かれた後者は、長年露伴研究に携わってきた著者ならではの、初期露伴文学への含蓄に富む手引きであるが、函館・青森間の船賃、郡山・上野間の汽車の所要時間や、新聞広告による花婿募集の実例なども示されており、実証的な成果を兼ね備えている。

続くⅡは、テーマに即して露伴文学を紹介、分析したもので、初期作品に見える夢、少年文学(これが意外に多い)の分類と代表的作品の解題、明治期の文体、連句断片の成立時期、児玉照子との再婚のありよう、〈反近代〉 、西鶴・芭蕉・「遊仙窟」等の古典研究、明治23年の熊本旅行の実熊、江戸落語との関わり、露伴文学に描かれた父親像など、バラエティーに富む。知見が広がり、読んでいて楽しい。

Ⅲは概説的な文章で、露伴の文学、伝記、研究史等の解説。塩谷賛『露伴の魔』・高木卓『人間露伴』の解説や、露伴の自伝的文章の解説も含み、初学者には必読。

さて、本書全体を貫く問題意識は、露伴をいかに〈近代〉文学に定位するか、ということである。著者は最初期の「「五重塔」論」以来、露伴を〈反近代〉の作家として論じており、例えば「露伴の〈反近代〉」では、〈反近代〉という用語に即してその文学史的位置付け・再評価を要請している。これは確かに一定の説得性を持っているが、いまや「西洋文学の理念実現の度合」(「「五重塔」論」)をもって作家の〈近代〉性を計ろうとする研究者はあまりいないのではなかろうか。むしろ、個々の作品を詳細に考察することで〈反近代〉以外の多様な評価軸、側面が見出されてもよいと思う。しかしそうした試みの際にも、本書は拠るペき確かな立脚点となるはずである。

幸田露伴論考

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登尾 豊 著

『国文学』 2007年1月号

滝藤満義 (千葉大学教授)

本書は登尾氏が35年問にわたって発表し続けた露伴関連論考30篇を、3部に整理してまとめた作家論である。Ⅰは作品論で、「露団々」から「連環記」にいたる、露伴生涯の主要作品11篇を論じたものである。Ⅱは作家露伴、人間露伴に関わる個別のテーマを論じた論考群であり、Ⅲは露伴小伝、研究史、書籍解題等からなっている。

本書の中心をなすのは、言うまでもなくⅠの作品論の部で、分量的にも本書の過半を占めている。12篇の作品論(「連環記」論2篇あり)の中で最初に書かれた「五重塔」論は、それまで川端康成研究を目指していた若き日の登尾氏に、露伴研究へと舵を切らせた記念碑的なもので、当時この論の生成の過程に、図らずも立ち会った評者自身にも感慨の深いものがある。作品「五重塔」における「暴風雨の意味」を問うために、国会図書館気象庁分室に赴いて調べたことを直接氏から聞かされた当時のことが思い出される。ただ、現在Ⅰに収められた他の作品論と読み比べてみると、かなり詰屈な、評価意識の勝った、肩に力の入った論述であるように思われるのは、著者の若書きの故であろうか。当時の登尾氏の露伴評価の基軸は、三好行雄氏が提唱した「反近代」の視点で露伴文学を読み解くことにあった。これが「五重塔」の評価だけに留まらず、やがて氏の露伴論全体の基軸にもなったことは、本書所収の多くの論考の示すところである。「反近代」は無論「前近代」ではない。登尾氏は露伴文学がれっきとした近代文学であることを、例えば、恋愛を真面目なもとし、その精神性を謳う「風流仏」や、初期職人物の背景に「自助論」の精神があること、「いさなとり」の告白文学(「まことの我」の懺悔の物語)性等で示すばかりでなく、何よりも露伴の小説が「作者の内面の表現」であることを以て示そうとしている。しかしその半面において、露伴の基礎的な素養である漢学や仏教の思想が彼の文学を「述志の文学」たらしめ、浅薄な日本の近代化に対して文明批評の機能を果たすことになるというのである。この露伴の東洋的側面は、「短」にしては少年文学に顕著なように、彼の作品に教訓的、啓蒙的要素を突出させ、「長」にしては「風流微塵蔵」のように、「神のごとく人間世界を俯瞰して描く行為」や、「連環記」のように、「天の高みから人生を俯瞰するような行為」を可能ならしめるという。

以上のような登尾氏の露伴評価の基軸は、35年にわたる本書所収のどの論考においてもブレを見せない。それは氏の外連味のない達意の文章とともに、クリアーな露伴像をわれわれに提示してくれることになり見事であるが、これには氏自身が露伴の所謂「孤高」性に依拠し過ぎている部分もありはしないだろうか。登尾氏が言うように、露伴文学が初期の浪漫主義的作風から第2期の写実主義への接近、第3期の史伝へという変遷を見せたというのであれば、露伴と教養の質に差異のある森外の作風の変遷とも見合うものもあるわけだし、もう少し両者の共通面の、拠って来る所以のものにも言及があってしかるべきではなかろうか。乱暴な言い方をさせてもらえば、案外露伴も、外に限らず、日本の近代文学者たちの多くが突き当ったと同じ西洋近代の壁に、またそこに引き起こされた共通の諸問題に逢着していただけかもしれないのである。

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